レフ・トルストイ
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『アンナ・カレーニナ』では、社会慣習の罠に陥った女性と哲学を好む富裕な地主の話を並行して描くが、地主の描写には農奴とともに農場で働き、その生活の改善を図ったトルストイ自体の体験が反映している。小説の主人公アンナのモデルはアレクサンドル・プーシキンの長女マリア(ロシア語版)で、トルストイは1868年に出会っている。パンジーの花飾りや真珠のネックレスを描いた彼女を描写する一節は、トルストイ博物館に収蔵される肖像画と全く同じである。トルストイはまた社会事業に熱心であり、自らの莫大な財産を用いて、貧困層へのさまざまな援助を行った。援助資金を調達するために作品を書いたこともある。一方『戦争と平和』執筆終了後、『アンナ・カレーニナ』の執筆にかかる前に、トルストイは初等教育の教科書作成を行った。この「初等教科書」は1872年に完成したものの価格や内容の点で全く売れず[12]、1874年には国民学校図書として認可を受けた[13]ものの不評は変わらなかった。そのため同年にトルストイは改訂を始め、翌1875年には「新初等教科書」を発行した。この改訂版は価格を下げたこともあり大好評で、ロシア革命まで教科書として使用され続け、革命後もその内容の多くは新しい教科書に採用された[14]1908年5月23日、セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーがヤースナヤ・ポリャーナで撮影したトルストイのカラー写真

世界的名声を得たトルストイだったが、1870年代から徐々に精神的な危機が進行しており、『アンナ・カレーニナ』を書き終えたのちの1878年頃から[15]人生の無意味さに苦しみ、自殺を考えるようにさえなる。精神的な彷徨の末、宗教や民衆の素朴な生き方にひかれ、山上の垂訓を中心として自己完成を目指す原始キリスト教的な独自の教義を作り上げ[16]、以後作家の立場を捨て、その教義を広める思想家・説教者として活動するようになった(トルストイ運動)。その活動においてトルストイは、民衆を圧迫する政府を論文などで非難し、国家と私有財産搾取を否定したが、たとえ反政府運動であっても暴力は認めなかった。当時大きな権威をもっていたロシア正教会も国家権力と癒着してキリストの教えから離れているとして批判の対象となった。また信条にもとづいて自身の生活を簡素にし、農作業にも従事するようになる。そのうえ印税や地代を拒否しようとして、家族と対立し、1884年には最初の家出を試みた[17]。この危機は1885年頃に終了する[15]。またこの間、1881年にはモスクワに転居し、1901年まで夏期はヤースナヤ・ポリャーナで、冬季はモスクワで過ごす生活を続けた[18]

上記の「回心」後は、『イワンのばか』(1885)のような大衆にも分かりやすい民話風の作品が書かれた。戯曲『闇の力(英語版)』(1886)は、専制政治強化を主導していたコンスタンチン・ポベドノスツェフの圧力によって1902年まで公的な上演が禁止されていた。しかし、実際には地下活動によって数回、非公式の形で上演された。そういった圧力が強まる中で『人生論』(1887)など、道徳に関する論文が多くなる。小説も教訓的な傾向の作品が書かれるようになる。『イワン・イリイチの死(英語版)』(1886年)、『クロイツェル・ソナタ』(1889)などがそれにあたる。『イワン・イリイチの死』では、死を前にした自身の恐怖を描き出している。

1891年から1892年にかけてのロシア飢饉(英語版)では、救済運動を展開し、世界各地から支援が寄せられたが[19]、政府側はトルストイを危険人物視し[20]、1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなった[21]。『神の国は汝らのうちにあり』(1893)など、宗教に関する論文が多くなる。『芸術とは何か(英語版)』(1898)では、自作も含めた従来の芸術作品のほとんどが上流階級のためのものだとして、その意義を否定した。

その中でも最大の作品は、政府に迫害されていたドゥホボル教徒の海外移住を援助するために発表された晩年の作品『復活』(1899)であり、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となっている。またこの作品の著作権料によって試みは成功し、カナダへとドゥホボル教徒は移住した[22]。ただ作品の出版は政府や教会の検閲によって妨害され、国外で出版したものを密かにロシアに持ち込むこともしばしばであった。『復活』はロシア正教会の教義に触れ、1901年破門の宣告を受けたが[23]、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。社会運動家として大衆の支持が厚かったトルストイに対するこの措置は大衆の反発を招いたが、現在もトルストイの破門は取り消されていない[24]。一方で、存命当時より聖人との呼び声があったクロンシュタットのイオアン(のち列聖される)は正教会の司祭でありながらトルストイとの交流を維持しつつ、ロシア正教の教えにトルストイを立ち帰らせようと努めたことで知られる。またトルストイと交流していた日本人・瀬沼恪三郎は日本人正教徒であった。瀬沼恪三郎やイオアンとも会っている事にも見られる通り、必ずしもトルストイと正教会の関係は完全に断絶したとは言えない面もある。

作家・思想家としての名声が高まるにつれて、人々が世界中からヤースナヤ・ポリャーナを訪れるようになった[25]1904年日露戦争1905年第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判し、特に日本による大韓帝国の保護国化を「日本の政治家は朝鮮を併呑しようと躍起になり、根拠のないことをする狂人だ」と非難した(『ヤースナヤ・ポリャーナ日記』)。1909年と翌1910年にはガンディーと文通している[26]。その一方、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ[27]、夫人との長年の不和に悩んでいた。1910年、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、家出3日後に小駅アスターポヴォ(現・レフ・トルストイ駅(ロシア語版))[map]で下車した[28]。1週間後、11月20日に駅長官舎にて肺炎により死去。82歳没。葬儀には1万人を超える参列者があった。遺体はヤースナヤ・ポリャーナに埋葬された[23]。遺稿として中編『ハジ・ムラート』(1904)、戯曲『生ける屍』(1900)などがある。
家族孫娘とともに詳細は「トルストイ家(英語版)」を参照

妻ソフィア・トルスタヤ(英語版)は悪妻として知られ、ソクラテスの妻クサンティッペモーツァルトの妻コンスタンツェとともに「世界三大悪妻」に数える向きもある[注釈 4]デール・カーネギーは「人を動かす」において、トルストイが臨終の直前妻を近づけるなと遺言したこと、また死の床でソフィアが「お父さんが死んだのは自分のせいである」と自責の言葉を述べたが、それを聞いた子どもたちは誰も反論しなかったエピソードを紹介している。しかし、フェミニスト達は、両者の対立は、トルストイが宗教や社会活動に傾倒して家庭を顧みなかった一方(上述のとおり、晩年のトルストイは印税や地代の受け取りを拒否しようとしたほか、著作権その他の遺産を「ロシア国民に移譲する」とする遺言状を作成しようとしていた)、ソフィアが十数人の子どもたちを養い、生活を守るために現実的に生きざるを得なかったためと主張している。映画「終着駅 トルストイ最後の旅」では、トルストイを深く愛しながらも、彼と対立していくソフィアの報われない愛が描かれている。

三男イリヤ・トルストイ(英語版)は、1914年に発表した": Reminiscences of Tolstoy"(後に加筆された。『父トルストイの思い出』-: Tolstoy, My Father; Reminiscences)で作家として一躍脚光を浴びた。1917年アメリカ合衆国へ亡命。

四女アレクサンドラ・トルスタヤ(英語版)は、1929年に日本へ出国し、18ヶ月過ごした後[29]1931年アメリカ合衆国へ亡命。著書『お伽の国‐日本―海を渡ったトルストイの娘』で日本での二年間の滞在記を記している。

玄孫ウラジーミル・トルストイは、ウラジーミル・プーチン大統領顧問になった[30]


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