レバノン共和国(レバノンきょうわこく、アラビア語: ????????? ?????????)、通称レバノンは、中東のレバントに位置する共和制国家[4][5][6][7]。首都はベイルート。北と東ではシリアと、南ではイスラエルと国境を接し、西には地中海を挟んでキプロスがある。 レバノンは地中海盆地とアラビア内陸部の交差点に位置することから、豊かな歴史を持ち、宗教的・民族的な多様性を持つ文化的アイデンティティを形成してきた[8]。レバノンの面積は1万452平方キロメートル[1]で、アジアの大陸側にある主権国家としては最も小さい。 レバノンの文明の最も初期の証拠は、記録された歴史によれば7000年以上前に遡る[9]。レバノンはフェニキア人にとって、ほぼ3000年(紀元前3200年から539年)の間栄えた海洋文化の拠点だった。紀元前64年には、同地域はローマ帝国の支配下に入り、最終的にはキリスト教のその主要な中心地の一つとなった。第1回十字軍によってトリポリ伯国(1102?1289)などを中心にこの地域に十字軍国家が興され、レバノンでは、マロン派として知られている修道院の伝統が生まれた。アラブ人のイスラム教徒がこの地域を征服しても、マロン人はキリスト教・十字架とアイデンティティを維持した。しかし、新しい宗教グループであるドゥルーズ派が定着し、何世紀にもわたって宗教的な分裂が続いている。十字軍の間に、マロン人はローマ・カトリック教会との接触を再確立し、ローマとの交わりを主張した。これらの結びつきは、この地域の近代化にも影響を与えている。 その後レバノンは16世紀にオスマン帝国に征服され、その後400年間支配下に置かれた。第一次世界大戦後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州はフランスの委任統治下に置かれた(フランス委任統治領シリア)。フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにした。1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立された。ベチャラ・エル・クーリー大統領、リアド・エル・ソル首相、国防大臣のマジド・アルスラーン2世は、現代レバノンの創始者であり、独立に貢献した国民的英雄と見なされている。レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していたが、様々な政治的・宗派的派閥による血なまぐさいレバノン内戦(1975年 - 1990年)によって崩壊した。この戦争は部分的にシリア(1975年 - 2005年)とイスラエル(1985年 - 2000年)による軍事占領につながった。 レバノンは小さな国であるが、その大規模で影響力のあるディアスポラによって、アラブ世界のみならず世界的にもレバノンの文化は知られている[6]。内戦前のレバノンは、観光、農業、商業、銀行業を含む多様な経済を享受していた[10]。また、ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれるほど多くの観光客を魅了した[11]。終戦後は、経済復興と国家インフラの再構築に力を注いできたため[12]、中東の金融センターとして栄えた時期もある[13]。紛争の政治的・経済的影響からの回復途上にありながらも、人間開発指数と一人当たりのGDPはペルシャ湾岸の産油国を除くアラブ世界で最も高く、国際色豊かな比較的先進的な国であった。しかし、2019年に当時の内閣が退陣して以降、経済状況が悪化の一途をたどり、2020年3月には国の借金が返済できない債務不履行(デフォルト)に陥った。通貨安で輸入品中心に物価が高騰の上にコロナ禍で主力産業の観光業が冷え込み、国民の過半数が1日に最低限必要なものが買えない貧困線以下の暮らしを強いられている[13]。 レバノンは1945年に国際連合(国連)の創設メンバーとなり、アラブ連盟(1945年)、非同盟運動(1961年)、イスラム協力機構(1969年)、フランコフォニー国際機関(1973年)に加盟している。 アラビア語での正式名称は、「アル=ジュンフーリーヤ・アッ=ルブナーニーヤ」(アラビア語:????????? ?????????, ラテン文字転写:al-Jumh?r?yah al-Lubn?n?yah ないしは al-Jumh?r?ya al-Lubn?n?ya)。 通常は「レバノン」という名称に対応する「ルブナーン」(?????, Lubn?n)と呼ばれる。なおこの現地方言発音の代表例「リブナーン」(Libn?n)[14]で口語会話の際にこのような発音が聞かれる。 英語表記は、Lebanese Republic。通称、Lebanon。フランス語ではRepublique libanaise。 日本語の表記は、レバノン共和国。通称、レバノン。漢字表記は、黎巴嫩。 レバノンの語源であるレバンはフェニキア語で「白い」を意味し、山頂が冠雪したレバノン山に由来する。オスマン帝国時代に、この地方を呼ぶ時に使ったことが国名の由来である。 現在のレバノンに相当する地域は、古代はフェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアのカルタゴ[† 1]、バルセロナ、マルセイユ、リスボンなど各地に植民地を形成した。その後フェニキアの勢力は弱体化。紀元前10世紀にアッシリア帝国に飲み込まれ、紀元前875年から紀元前625年までの150年もの間アッシリアに占領された。その後、民族としてのフェニキア人は消滅したと言われているが、現代のレバノン人は、しばしば自分たちを「フェニキア人の末裔」と見なす事がある。日本の安宅産業破綻に関与したレバノン系アメリカ人実業家、ジョン・M・シャヒーンが、『月刊プレイボーイ』のインタビューの中で自らを「フェニキア人の末裔だ」と誇りを込めて述べたのは、その一例と言える。
概要
国名
歴史詳細は「レバノンの歴史」を参照
古代オリエント世界ティルスの凱旋門