レバノン
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レバノンの文明の最も初期の証拠は、記録された歴史によれば7000年以上前に遡る[9]。レバノンはフェニキア人にとって、ほぼ3000年(紀元前3200年から539年)の間栄えた海洋文化の拠点だった。紀元前64年には、同地域はローマ帝国の支配下に入り、最終的にはキリスト教のその主要な中心地の一つとなった。第1回十字軍によってトリポリ伯国(1102?1289)などを中心にこの地域に十字軍国家が興され、レバノンでは、マロン派として知られている修道院の伝統が生まれた。アラブ人イスラム教徒がこの地域を征服しても、マロン人はキリスト教・十字架とアイデンティティを維持した。しかし、新しい宗教グループであるドゥルーズ派が定着し、何世紀にもわたって宗教的な分裂が続いている。十字軍の間に、マロン人はローマ・カトリック教会との接触を再確立し、ローマとの交わりを主張した。これらの結びつきは、この地域の近代化にも影響を与えている。

その後レバノンは16世紀にオスマン帝国に征服され、その後400年間支配下に置かれた。第一次世界大戦後のオスマン帝国の崩壊後、現在のレバノンを構成する5つの州はフランス委任統治下に置かれた(フランス委任統治領シリア)。フランスは、マロン人とドゥルーズ人が多かったレバノン山総督府の国境を拡大し、より多くのイスラム教徒を含むようにした。1943年に独立したレバノンでは、主要な宗派に特定の政治的権限が割り当てられた独自の宗派主義的な政府形態が確立された。ベチャラ・エル・クーリー大統領、リアド・エル・ソル首相、国防大臣のマジド・アルスラーン2世は、現代レバノンの創始者であり、独立に貢献した国民的英雄と見なされている。レバノンは当初、政治的にも経済的にも安定していたが、様々な政治的・宗派的派閥による血なまぐさいレバノン内戦(1975年 - 1990年)によって崩壊した。この戦争は部分的にシリア(1975年 - 2005年)とイスラエル(1985年 - 2000年)による軍事占領につながった。

レバノンは小さな国であるが、その大規模で影響力のあるディアスポラによって、アラブ世界のみならず世界的にもレバノンの文化は知られている[6]。内戦前のレバノンは、観光、農業、商業、銀行業を含む多様な経済を享受していた[10]。また、ベイルートは「中東のパリ」と呼ばれるほど多くの観光客を魅了した[11]。終戦後は、経済復興と国家インフラの再構築に力を注いできたため[12]、中東の金融センターとして栄えた時期もある[13]。紛争の政治的・経済的影響からの回復途上にありながらも、人間開発指数と一人当たりのGDPペルシャ湾岸の産油国を除くアラブ世界で最も高く、国際色豊かな比較的先進的な国であった。しかし、2019年に当時の内閣が退陣して以降、経済状況が悪化の一途をたどり、2020年3月には国の借金が返済できない債務不履行(デフォルト)に陥った。通貨安で輸入品中心に物価が高騰の上にコロナ禍で主力産業の観光業が冷え込み、国民の過半数が1日に最低限必要なものが買えない貧困線以下の暮らしを強いられている[13]

レバノンは1945年に国際連合国連)の創設メンバーとなり、アラブ連盟(1945年)、非同盟運動(1961年)、イスラム協力機構(1969年)、フランコフォニー国際機関(1973年)に加盟している。
国名

アラビア語での正式名称は、「アル=ジュンフーリーヤ・アッ=ルブナーニーヤ」(アラビア語:????????? ?????????, ラテン文字転写:al-Jumh?r?yah al-Lubn?n?yah ないしは al-Jumh?r?ya al-Lubn?n?ya)。

通常は「レバノン」という名称に対応する「ルブナーン」(?????, Lubn?n)と呼ばれる。なおこの現地方言発音の代表例「リブナーン」(Libn?n)[14]で口語会話の際にこのような発音が聞かれる。

英語表記は、Lebanese Republic。通称、Lebanon。フランス語ではRepublique libanaise。

日本語の表記は、レバノン共和国。通称、レバノン。漢字表記は、黎巴嫩。

レバノンの語源であるレバンはフェニキア語で「白い」を意味し、山頂が冠雪したレバノン山に由来する。オスマン帝国時代に、この地方を呼ぶ時に使ったことが国名の由来である。
歴史詳細は「レバノンの歴史」を参照
古代オリエント世界ティルスの凱旋門

現在のレバノンに相当する地域は、古代フェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアカルタゴ[† 1]バルセロナマルセイユリスボンなど各地に植民地を形成した。その後フェニキアの勢力は弱体化。紀元前10世紀アッシリア帝国に飲み込まれ、紀元前875年から紀元前625年までの150年もの間アッシリアに占領された。その後、民族としてのフェニキア人は消滅したと言われているが、現代のレバノン人は、しばしば自分たちを「フェニキア人の末裔」と見なす事がある。日本安宅産業破綻に関与したレバノン系アメリカ人実業家、ジョン・M・シャヒーンが、『月刊プレイボーイ』のインタビューの中で自らを「フェニキア人の末裔だ」と誇りを込めて述べたのは、その一例と言える。

アッシリア帝国に代わって新バビロニアが代わってフェニキアを支配し、紀元前525年にはアレクサンドロス大王マケドニア王国や、その後継のセレウコス朝シリアの一部となった。古代末期にはローマ帝国に征服され、7世紀には東ローマ帝国を破ったアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれた。アラブ人の征服により、住民のアラブ化が進んだ。
レバノンのアラブ化

レバノンは歴史的シリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的少数者の避難場所となり、キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)、イスラム教のドゥルーズ派の信徒らがレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。19世紀ごろからマロン派に影響力を持つローマ・カトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。ただしレバノンのキリスト教徒はアラブ人ではなかった。
OETA北詳細は「占領下敵国領政庁(英語版)」を参照

現代レバノン史は、第一次世界大戦でオスマン帝国などが敗れ、戦勝国となったフランスによる1918年の占領とともに始まった(OETA北)。1919年パリ講和会議で、同じく戦勝国となったアメリカ合衆国やイギリスの関係者とマロン派大司教のグループや、在外レバノン人団体「シリア中央委員会」との間で主張が異なったが、サイクス・ピコ協定に基づきフランス委任統治下に入れることが話し合われた。
シリア王国の独立

1920年3月8日シリア・アラブ王国ハーシム家ファイサル1世を国王として独立。しかし、フランス・シリア戦争(英語版)でフランス軍と衝突すると、1920年7月24日に4ヶ月あまりで瓦解した。
フランス委任統治領時代詳細は「大レバノン」および「フランス委任統治領大レバノン」を参照「フランス委任統治領シリア」も参照


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