レバノン
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終戦後は、経済復興と国家インフラの再構築に力を注いできたため[12]、中東の金融センターとして栄えた時期もある[13]。紛争の政治的・経済的影響からの回復途上にありながらも、人間開発指数と一人当たりのGDPペルシャ湾岸の産油国を除くアラブ世界で最も高く、国際色豊かな比較的先進的な国であった。しかし、2019年に当時の内閣が退陣して以降、経済状況が悪化の一途をたどり、2020年3月には国の借金が返済できない債務不履行(デフォルト)に陥った。通貨安で輸入品中心に物価が高騰の上にコロナ禍で主力産業の観光業が冷え込み、国民の過半数が1日に最低限必要なものが買えない貧困線以下の暮らしを強いられている[13]

レバノンは1945年に国際連合国連)の創設メンバーとなり、アラブ連盟(1945年)、非同盟運動(1961年)、イスラム協力機構(1969年)、フランコフォニー国際機関(1973年)に加盟している。
国名

アラビア語での正式名称は、「アル=ジュンフーリーヤ・アッ=ルブナーニーヤ」(アラビア語:????????? ?????????, ラテン文字転写:al-Jumh?r?yah al-Lubn?n?yah ないしは al-Jumh?r?ya al-Lubn?n?ya)。

通常は「レバノン」という名称に対応する「ルブナーン」(?????, Lubn?n)と呼ばれる。なおこの現地方言発音の代表例「リブナーン」(Libn?n)[14]で口語会話の際にこのような発音が聞かれる。

英語表記は、Lebanese Republic。通称、Lebanon。フランス語ではRepublique libanaise。

日本語の表記は、レバノン共和国。通称、レバノン。漢字表記は、黎巴嫩。

レバノンの語源であるレバンはフェニキア語で「白い」を意味し、山頂が冠雪したレバノン山に由来する。オスマン帝国時代に、この地方を呼ぶ時に使ったことが国名の由来である。
歴史詳細は「レバノンの歴史」を参照
古代オリエント世界ティルスの凱旋門

現在のレバノンに相当する地域は、古代フェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアカルタゴ[† 1]バルセロナマルセイユリスボンなど各地に植民地を形成した。その後フェニキアの勢力は弱体化。紀元前10世紀アッシリア帝国に飲み込まれ、紀元前875年から紀元前625年までの150年もの間アッシリアに占領された。その後、民族としてのフェニキア人は消滅したと言われているが、現代のレバノン人は、しばしば自分たちを「フェニキア人の末裔」と見なす事がある。日本安宅産業破綻に関与したレバノン系アメリカ人実業家、ジョン・M・シャヒーンが、『月刊プレイボーイ』のインタビューの中で自らを「フェニキア人の末裔だ」と誇りを込めて述べたのは、その一例と言える。

アッシリア帝国に代わって新バビロニアが代わってフェニキアを支配し、紀元前525年にはアレクサンドロス大王マケドニア王国や、その後継のセレウコス朝シリアの一部となった。古代末期にはローマ帝国に征服され、7世紀には東ローマ帝国を破ったアラブ人に征服されてイスラム世界に組み込まれた。アラブ人の征服により、住民のアラブ化が進んだ。
レバノンのアラブ化

レバノンは歴史的シリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的少数者の避難場所となり、キリスト教マロン派(マロン典礼カトリック教会)、イスラム教のドゥルーズ派の信徒らがレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。19世紀ごろからマロン派に影響力を持つローマ・カトリック教会を通じてヨーロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなった。ただしレバノンのキリスト教徒はアラブ人ではなかった。
OETA北詳細は「占領下敵国領政庁(英語版)」を参照

現代レバノン史は、第一次世界大戦でオスマン帝国などが敗れ、戦勝国となったフランスによる1918年の占領とともに始まった(OETA北)。1919年パリ講和会議で、同じく戦勝国となったアメリカ合衆国やイギリスの関係者とマロン派大司教のグループや、在外レバノン人団体「シリア中央委員会」との間で主張が異なったが、サイクス・ピコ協定に基づきフランス委任統治下に入れることが話し合われた。
シリア王国の独立

1920年3月8日シリア・アラブ王国ハーシム家ファイサル1世を国王として独立。しかし、フランス・シリア戦争(英語版)でフランス軍と衝突すると、1920年7月24日に4ヶ月あまりで瓦解した。
フランス委任統治領時代詳細は「大レバノン」および「フランス委任統治領大レバノン」を参照「フランス委任統治領シリア」も参照

キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地は、シリアから切り離されて大レバノンとすることになった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付いたマロン派、正教会ローマ・カトリックプロテスタントを合計したキリスト教徒の割合が40%を超え、イスラム教のシーア派スンナ派などの他宗派に優越するようになった。こうした経緯から、現在でもフランスとの緊密な関係を維持している。9月1日、フランス占領下の独立国家大レバノン国(: Etat du Grand Liban)が正式に布告された[† 2]1922年までは知事を補佐する諮問委員会が設けられ、17名の委員はレバノンの各宗派から高等弁務官が任命した。

1923年9月29日に連合国の最高評議会は、シリアとレバノンの委任統治をフランスに要請することを決めた(フランス委任統治領大レバノンフランス委任統治領シリア)。1925年7月に行われた選挙で代表評議会が構成され、代表評議会は第1期議会となった。1926年3月に大レバノン国家を共和国に変える憲法草案が提出され、同年レバノン共和国(: Republique libanaise)が誕生した。初代大統領としてレバノン民族主義者のシャルル・ダッバスが同年選ばれた。途中再選され、1932年まで務めた[15]
独立

第二次世界大戦初期、ナチス・ドイツのフランス侵攻でフランス本国はドイツなどの占領下またはドイツの傀儡国家ヴィシー・フランスの統治下に置かれた。亡命政府である自由フランスイギリスなど連合国シリア・レバノン戦役で地中海東岸を制圧。1941年9月27日にシリアが、同年11月26日にレバノンが独立を宣言した。連合国として自由フランスを支援していたイギリスは宣言後すぐに独立を承認し、ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初頭に、軍人を両国駐在の公使として派遣して両国を支援した。レバノンはその後、1943年11月22日に正式に独立した。


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