2004年のラッフード大統領任期延長以後、2005年のラフィーク・アル=ハリーリー元首相暗殺事件までは、(1)ル・ブリストル会合、(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派、(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流の3潮流が、親シリア派のエミール・ラッフード大統領の任期延長問題を中心に対立した。
(1)ル・ブリストル会合派(対シリア慎重派) 〔 〕内は代表・党首。
進歩社会主義党(PSP, 民主会合ブロック)〔ワリード・ジュンブラート〕
民主刷新運動
ターイブ改革運動
レバノン軍団(LF)〔サミール・ジャアジャア〕
民主フォーラム
国民ブロック党
など計9政党・ブロック
(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派(親シリア派)
アマル運動(抵抗開発ブロック)〔ナビーフ・ビッリー国会議長〕
ヒズボラ(抵抗への忠誠ブロック)〔ハサン・ナスルッラー〕
マトン・ブロック
トリポリ・ブロック
バアス党
レバノン民主党
ターシュナーク党
シリア民族社会党
ナセル人民機構
レバノン・カターイブ党
など計15政党・ブロック 2005年のハリーリー元首相暗殺事件を受けて、(1)ル・ブリストル会合派は同事件にシリア政府が関わっていると主張。2005年2月、ベイルートで数十万人規模の示威行動を起こした。後にこのデモは「独立インティファーダ」と呼ばれるようになる。 内閣総辞職など劣勢を強いられた(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派は2005年3月8日に巻き返しを図るべく、ヒズボラの指導のもと数十万人規模のデモを同じくベイルート市内で行った。さらにこれを受けた(1)ル・ブリストル会合派は2005年3月14日に100万人以上の民衆を動員してハリーリー元首相の追悼集会を開いた。 こうした背景や、(3)ベイルート決定ブロックと自由国民潮流が(1)ル・ブリストル会合派に合流したことにより、対立軸は「親シリア」と「反シリア」に移った。 上の9政党・ブロック+ムスタクバル潮流・自由国民潮流 2005年4月、米国の主導するシリア・バッシングやレバノンでの反シリア気運の高まりを受けて、シリア軍がレバノンから完全撤退した。 シリア軍完全撤退直後に行われた第17期国民議会選挙では、ムスタクバル潮流が(1)「3月14日勢力」を主導してきた進歩社会主義党、(2)「3月8日勢力」の中心であるアマル運動・ヒズボラと「四者同盟」を結び、全国で選挙協力を行った。一方、これに対抗し自由国民潮流は「変化改革リスト」を作成した。つまり、「親シリア」「反シリア」を超えた「談合政治」が行われたのである。 結局、(3)「四者同盟」対(4)「変化改革リスト」の与野党と(1)「3月8日勢力」対(2)「3月14日勢力」の2つの対立軸が交錯することとなった。 など など シリア軍の完全撤退により「実質的権力装置」であったシリア軍・シリア系諸機関を失ったレバノン内政は、2005年12月から2度にわたり麻痺に陥った。1度目は2005年12月のジュブラーン・トゥワイニー議員暗殺事件を契機に(2)「3月8日勢力」の閣僚が、2度目は(1)「3月14日勢力」の閣僚が閣議をボイコットした。 このような中、2006年2月、(2)「3月8日勢力」の中心であるヒズボラと(4)「変化改革ブロック」の自由国民潮流((1)3月14日勢力であり当時反シリア派の急先鋒)が共同文書を発表し歩み寄った。その結果、「変化改革ブロック」は(2)「3月8日勢力」に合流し、自由国民潮流も親シリア派勢力に転じた。 など計12政党・ブロック など計12政党・ブロック ※以上の分析は青山弘之・末近浩太著『現代シリア・レバノンの政治構造』 (岩波書店〈アジア経済研究所叢書5〉、2009年。ISBN 978-4-00-009974-5) によった[要ページ番号]。 2009年6月の国民議会選挙後に生じた「3月14日勢力」と「3月8日勢力」の国民議会議長選出に関する対立は、両陣営が参加する挙国一内閣の組閣人事にも影響を与えた。両陣営の閣僚配分を巡る対立は7月下旬には一応の収束を見たが、直後の8月1日に進歩社会主義党のワリード・ジュンブラート党首が「3月14日勢力」からの離反を突如として宣言した(ジュンブラートの変)。また、8月中旬にはレバノン・カターイブ党も「3月14日勢力」への参加を凍結した。多極対立の発生によりレバノン政治はさらなる麻痺状態に陥った。[29] など など ---!> 南隣のイスラエルに対しては国家の承認をしておらず、イスラエル当局者との接触を法律で禁じている[30]。両国沖の地中海には、イスラエル寄りに「カリシュ・ガス田」、レバノン寄りに「カナ・ガス田」があり、その開発を急ぐ意味もあって海洋境界について2020年10月から断続的に交渉してきた[30]。イスラエルは2022年10月11日に境界画定で合意したと発表し、交渉を仲介したアメリカ合衆国と、イスラエルに抵抗運動を続けてきたヒズボラがそれぞれ妥結への寄与を主張した[31]。同年10月27日に合意最終案への署名に至り、イスラエルの首相ヤイル・ラピドは「(レバノンが)イスラエルを国家として認めた」と主張したが、レバノンのミシェル・アウン大統領は「和平協定ではない」と否定した[30]。 駐日イスラエル大使ギラッド・コーヘンは『毎日新聞』への寄稿で、この協定では、レバノンとの国境にあるイスラエル領ロシュ・ハニクラの5キロメートル沖に、イスラエルが2000年以降設置している浮標を国境とする現状を維持して排他的経済水域(EEZ)の端まで境界を確定し、さらに今回の協定および両国海域にまたがる海底資源が将来発見された場合へのアメリカ合衆国の関与を定めており、レバノンによるイスラエルの事実上の国家承認を意味すると説明している[32]。 レバノン国軍以外の準軍事組織としては、内務省所属の治安部隊、税関が存在する。 民兵組織としては「イスラエルに対するレジスタンスのため」に武装が許されたシーア派のヒズボラが存在する。それ以外のほとんどの民兵組織は、内戦終結時にシリア軍及び国軍によって武装解除させられた。南レバノン軍は政府の武装解除要求を拒否し、内戦終結後も南部の占有を続けていたが、ヒズボラとの闘争に敗れ、イスラエルの支援も途絶えたため、2000年に壊滅した。 ただし、民兵の武装解除は主力装備のみに留まったといわれており、現在でも多くは自動小銃など軽火器を保有しており[33]、訓練や動員も行われている。また、内戦の影響から多くの市民は小銃や拳銃を所持している。
(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流(中立派)
ムスタクバル潮流(ベイルート決定ブロック)〔ラフィーク・アル=ハリーリー(当時)〕
自由国民潮流〔ミシェル・アウン(当時は仏に亡命中)〕
ハリーリー元首相暗殺事件後
(1)「3月14日勢力」(ル・ブリストル会合派)
(2)「3月8日勢力」(アイン・アッ=ティーナ国民会合派)
シリア軍撤退後
(3)「四者同盟」を中心とする「与党」
ムスタクバル潮流((1)3月14日)
進歩社会主義党((1)3月14日)
レバノン・カターイブ党((1)3月14日)
レバノン軍団((1)3月14日)
アマル運動((2)3月8日)
ヒズボラ((2)3月8日)
(4)「変化改革ブロック」を中心とする「野党」
自由国民潮流((1)3月14日)
人民ブロック((2)3月8日)
マトン・ブロック((2)3月8日)
バアス党((2)3月8日)
ナセル人民機構((2)3月8日)
シリア民族社会党((2)3月8日)
2006年2月?
(1)「3月14日勢力」(対シリア慎重派)
ムスタクバル潮流
進歩社会主義党
民主刷新運動
レバノン・カターイブ党
レバノン軍団(LF)
民主フォーラム
国民ブロック党
(2)「3月8日勢力」(親シリア派)
アマル運動
ヒズボラ
自由国民潮流((4)変化改革ブロック)
マトン・ブロック((4)変化改革ブロック)
トリポリ・ブロック((4)変化改革ブロック)
バアス党
レバノン民主党
ターシュナーク党
シリア民族社会党
ナセル人民機構
2009年8月?
「3月14日勢力」(対シリア慎重派)
ムスタクバル潮流
ハンチャク党
民主左派運動
ラームガヴァーン党
レバノン軍団(LF)
心のザフレブロック
国民合意ブロック
「3月8日勢力」(親シリア派)
アマル運動
ヒズボラ
自由国民潮流
バアス党
レバノン民主党
マラダ潮流
団結党
ターシュナーク党
シリア民族社会党
無所属
進歩社会主義党
レバノン・カターイブ党
団結ブロック
国際関係詳細は「レバノンの国際関係(英語版
イスラエルとの関係
国家安全保障詳細は「レバノン軍」を参照
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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