大統領を元首とする共和制国家であり、国民議会は大統領の選出、政府(内閣)の承認、法案、予算の承認を行う。任期は4年。現行の憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、大統領はキリスト教マロン派、首相はイスラム教スンナ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出されるのが慣例となっている。国会議員数も各宗派の人口に応じて定められており、マロン派は34人、スンナ派とシーア派はそれぞれ27人などである。
この大統領・首相(行政の長)・国会議長のトロイカ体制は、内戦を終わらせた1990年のターイフ合意で規定されたが、今度は宗派間の3職を巡る抗争を宗派に無関係な、あるいは宗派および地域内での駆引きに発展させることとなった。しかしながら、これら政府要職や公式機関は名目的権力装置に過ぎず、実質的な内政・外交は「ザイーム」と呼ばれる有力者(あるいはその政党やブロック)間の連携・対立、シリア系の組織・機関(特に2005年のシリア軍撤退まで)の影響力が大きいとされる[25]。
総選挙は大選挙区完全連記制をとり、有権者は自らが属する宗派以外の立候補者を含む複数の候補者を選出する。
選挙の段階は選挙区改変(ゲリマンダリング)、候補者リスト作成の2段階を経る。前者に関しては、候補者(有力政治家・組織)は選挙法の規定を無視する形で選挙のたびに選挙区の改変を試みてきた。自らの地盤地域と選挙区を可能な限り一致させるためである。後者の段階では、同選挙区内の他の宗派に属する候補者と共同のリストを作成し、支持票を共有する。当選を確実にするには同一選挙区内の他の宗派の有権者に対しても投票を促す必要があるからである。 1996年6月の選挙法改正で、128の議席がベイルート地区19、ベッカー地区23、南部地区23、北地区28、山岳レバノン地区35に配分されることになった。1996年8月半ば山岳レバノンでの第1回目の選挙では、ハリーリ支持派が35議席中32を獲得した。8月末北部での2回目選挙では野党が勝利した。9月はじめのベイルートでの3回目の選挙ではハリーリ派は19議席中14を獲得した。9月上旬の南部にでの4回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合とその支持勢力が23議席全てを獲得した。9月半ばのベッカー地区での5回目の選挙ではアマル・ヒズボラ連合が23議席中22議席を獲得した。以上5回の選挙での投票率は平均で45%に達し、1992年選挙の投票率32%と比べ大きく前進した[26]。 1998年5月と6月に地方選挙が、1963年以来35年ぶりに行われた。1回目の選挙は山岳レバノン地区で行われ、ベイルート南郊外地区でヒズボラが勝利した。2回目の選挙は北レバノン地区で行われ、トリポリではイスラム教徒23名に対しキリスト教徒1名が選ばれた。3回目の選挙はベイルート地区で行われ、ハリーリ、ベッリ連合が大勝利した。4回目の選挙はベッカー地区で行われ、ヒズボラが親シリア派に敗れた。投票率はベイルート以外では平均70%であった。ベイルートではシーア派教徒の間で銃撃戦があった。しかし、レバノン全体では平穏に選挙が行われ、戦後のレバノンは正常化に向かい、民主主義が浸透しているものと評価された[27]。 2000年8月末山岳レバノンと北レバノンの両地区で、また、9月初めベイルート、ベッカー高原、ナバティーエ・南レバノンの4地区で2回に分けて行われた。1回目の選挙でハリーリ前首相の優勢が明らかになり、ラフード大統領とホッス現首相の劣勢が判明した。ハリーリとの同盟関係に立つワリード・ジュンブラートも山岳レバノンで圧勝した。また、アミーン・ジェマイエル元大統領の息子のピエール・ジェマイエルがメテン地区で当選した。2回目の選挙では、ベイルート地区でホッス現首相が落選した。19議席の内18をハリーリ派がおさえ、ハリーリは合計で23議席を獲得した。残り1議席はヒズボラ派が押さえた。ハリーリと同盟関係にあるジュンブラート派は16議席を獲得し、合計39議席をハリーリとその支持派が獲得した。南レバノン地区ではヒズボラとアマル連合が23議席を獲得、ベッカー地区ではヒズボラが圧勝した。ラフード大統領は選挙結果が確定してしばらく経ってもハリーリの首班指名が発表されなかった。10月23日になって、やっとラフード大統領はハリーリを新首相に任命した。10月末、ハリーリは30名からなる内閣の成立を発表した[28]。 2004年のラッフード大統領任期延長以後、2005年のラフィーク・アル=ハリーリー元首相暗殺事件までは、(1)ル・ブリストル会合、(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派、(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流の3潮流が、親シリア派のエミール・ラッフード大統領の任期延長問題を中心に対立した。 など計9政党・ブロック など計15政党・ブロック 2005年のハリーリー元首相暗殺事件を受けて、(1)ル・ブリストル会合派は同事件にシリア政府が関わっていると主張。2005年2月、ベイルートで数十万人規模の示威行動を起こした。後にこのデモは「独立インティファーダ」と呼ばれるようになる。 内閣総辞職など劣勢を強いられた(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派は2005年3月8日に巻き返しを図るべく、ヒズボラの指導のもと数十万人規模のデモを同じくベイルート市内で行った。さらにこれを受けた(1)ル・ブリストル会合派は2005年3月14日に100万人以上の民衆を動員してハリーリー元首相の追悼集会を開いた。 こうした背景や、(3)ベイルート決定ブロックと自由国民潮流が(1)ル・ブリストル会合派に合流したことにより、対立軸は「親シリア」と「反シリア」に移った。 上の9政党・ブロック+ムスタクバル潮流・自由国民潮流 2005年4月、米国の主導するシリア・バッシングやレバノンでの反シリア気運の高まりを受けて、シリア軍がレバノンから完全撤退した。 シリア軍完全撤退直後に行われた第17期国民議会選挙では、ムスタクバル潮流が(1)「3月14日勢力」を主導してきた進歩社会主義党、(2)「3月8日勢力」の中心であるアマル運動・ヒズボラと「四者同盟」を結び、全国で選挙協力を行った。一方、これに対抗し自由国民潮流は「変化改革リスト」を作成した。つまり、「親シリア」「反シリア」を超えた「談合政治」が行われたのである。 結局、(3)「四者同盟」対(4)「変化改革リスト」の与野党と(1)「3月8日勢力」対(2)「3月14日勢力」の2つの対立軸が交錯することとなった。 など など シリア軍の完全撤退により「実質的権力装置」であったシリア軍・シリア系諸機関を失ったレバノン内政は、2005年12月から2度にわたり麻痺に陥った。1度目は2005年12月のジュブラーン・トゥワイニー議員暗殺事件を契機に(2)「3月8日勢力」の閣僚が、2度目は(1)「3月14日勢力」の閣僚が閣議をボイコットした。 このような中、2006年2月、(2)「3月8日勢力」の中心であるヒズボラと(4)「変化改革ブロック」の自由国民潮流((1)3月14日勢力であり当時反シリア派の急先鋒)が共同文書を発表し歩み寄った。その結果、「変化改革ブロック」は(2)「3月8日勢力」に合流し、自由国民潮流も親シリア派勢力に転じた。 など計12政党・ブロック
1996年の国会議員選挙
1998年の地方選挙
2000年の国会議員選挙
政治潮流と政党「レバノンの政党」も参照
ハリーリー元首相暗殺事件まで
(1)ル・ブリストル会合派(対シリア慎重派) 〔 〕内は代表・党首。
進歩社会主義党(PSP, 民主会合ブロック)〔ワリード・ジュンブラート〕
民主刷新運動
ターイブ改革運動
レバノン軍団(LF)〔サミール・ジャアジャア〕
民主フォーラム
国民ブロック党
(2)アイン・アッ=ティーナ国民会合派(親シリア派)
アマル運動(抵抗開発ブロック)〔ナビーフ・ビッリー国会議長〕
ヒズボラ(抵抗への忠誠ブロック)〔ハサン・ナスルッラー〕
マトン・ブロック
トリポリ・ブロック
バアス党
レバノン民主党
ターシュナーク党
シリア民族社会党
ナセル人民機構
レバノン・カターイブ党
(3)ベイルート決定ブロック・自由国民潮流(中立派)
ムスタクバル潮流(ベイルート決定ブロック)〔ラフィーク・アル=ハリーリー(当時)〕
自由国民潮流〔ミシェル・アウン(当時は仏に亡命中)〕
ハリーリー元首相暗殺事件後
(1)「3月14日勢力」(ル・ブリストル会合派)
(2)「3月8日勢力」(アイン・アッ=ティーナ国民会合派)
シリア軍撤退後
(3)「四者同盟」を中心とする「与党」
ムスタクバル潮流((1)3月14日)
進歩社会主義党((1)3月14日)
レバノン・カターイブ党((1)3月14日)
レバノン軍団((1)3月14日)
アマル運動((2)3月8日)
ヒズボラ((2)3月8日)
(4)「変化改革ブロック」を中心とする「野党」
自由国民潮流((1)3月14日)
人民ブロック((2)3月8日)
マトン・ブロック((2)3月8日)
バアス党((2)3月8日)
ナセル人民機構((2)3月8日)
シリア民族社会党((2)3月8日)
2006年2月?
(1)「3月14日勢力」(対シリア慎重派)
ムスタクバル潮流
進歩社会主義党
民主刷新運動
レバノン・カターイブ党
レバノン軍団(LF)
民主フォーラム
国民ブロック党
(2)「3月8日勢力」(親シリア派)
アマル運動
ヒズボラ
自由国民潮流((4)変化改革ブロック)
マトン・ブロック((4)変化改革ブロック)
トリポリ・ブロック((4)変化改革ブロック)
バアス党
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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