レバノン
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途中再選され、1932年まで務めた[15]
独立

第二次世界大戦初期、ナチス・ドイツのフランス侵攻でフランス本国はドイツなどの占領下またはドイツの傀儡国家ヴィシー・フランスの統治下に置かれた。亡命政府である自由フランスイギリスなど連合国シリア・レバノン戦役で地中海東岸を制圧。1941年9月27日にシリアが、同年11月26日にレバノンが独立を宣言した。連合国として自由フランスを支援していたイギリスは宣言後すぐに独立を承認し、ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初頭に、軍人を両国駐在の公使として派遣して両国を支援した。レバノンはその後、1943年11月22日に正式に独立した。

大戦後のレバノンは自由経済を採用し、金融観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ、首都ベイルートは中東経済の中心地となり、また地中海有数の国際的リゾート地として、数多くのホテルが立ち並ぶなど大いに賑わい、「中東のパリ」と呼ばれるようになった。

1970年代までの中東戦争により、レバノン南部を中心にパレスチナ解放機構(PLO)をはじめとしたアラブ・ゲリラの基地が多数建設された。1972年9月16日、イスラエル軍はミュンヘンオリンピック事件の報復の一環としてレバノン南部に地上侵攻。レバノン軍は反撃を行ったが、イスラエル軍の攻撃対象はアラブ・ゲリラ基地であり、攻撃を短期間で終了させると直ちにイスラエル領内へ引き揚げている[16]
内戦と戦争「レバノン内戦」も参照レバノン内戦によって破壊された首都ベイルート(1978年

しかし、中東戦争ヨルダン内戦に伴うPLOの流入によって、国内の微妙な宗派間のバランスが崩れ、1975年にムスリムとマロン派の間で発生した衝突が引き金となってレバノン内戦が勃発した。

隣国シリアが平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル国防軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、元より寄り合い所帯である中央政府の力が弱かったこともあり、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する状態となった。これに周辺各国やアメリカ合衆国、欧州諸国、ソビエト連邦など大国の思惑も入り乱れ、断続的に紛争が続いたため、国土は著しく荒廃し、経済的にも大きな打撃を受け、「中東のパリ」の栄華は失われた。また、シリアやイランイスラム革命防衛隊の支援を受けたヒズボラなどのイスラム過激派が勢力を伸ばした。

1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとして、イスラエル軍は南部から越境して再侵攻(レバノン戦争(英語版)。ガリラヤの平和作戦とも)、西ベイルートを占領(英語版)した。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。この混乱を収めるために米・英・仏を中心とする多国籍軍が進駐したが(レバノン駐留多国籍軍(英語版))、イスラム武装組織の激しい自爆攻撃によって多数の兵士を失い(駐レバノンアメリカ大使館爆破事件(英語版))、一部でシリア軍とアメリカ軍の戦闘にまで発展した(ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件)。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン介入の困難さを世界へ示すことになった。

1990年にシリア軍が再侵攻(英語版)、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。シリアの駐留はレバノンに一応の安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認などで国際的な批判を受けた。シリアが2005年に撤退するまでの約15年間は「パクス・シリアーナ(シリアによる平和)」とも呼ばれ、撤退以降も政府高官を含めシリアの影響は強いとされる。

1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行と断定したイスラエル軍は、レバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦(英語版))。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍のフィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃される事件が発生、イスラエルは非難された。イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行っている。

1992年10月末、ヘラウィ大統領がラフィーク・ハリーリーへの組閣を要請した。その後反シリア派のハリーリーがレバノンの首相としてレバノン経済を立て直した。経済復興の努力が始まり、国家緊急再建計画として主要インフラ整備の総費用30億ドルをとりまとめた。この計画は「ホワイトゾン2000」[† 3]と呼ばれ、1995年から2007年までの長期計画に引き継がれた。他方、イスラエルは南レバノンを占領を続け、ヒズボラへの報復攻撃として首都空爆を繰り返し、経済復興の兆しを破壊した。一方、国内での不安も高まり、福祉関連に対する社会的不安や一部の政治家や実業家が不当な利益を得ているのでないかとの疑惑も広がった。国の借金もハリーリーが首相を退陣した2000年秋(9月9日)にはGDPの140%にも達していた。

2003年9月2日国連安保理の公式会合において、米・仏・英・独の提案によるレバノンの領土保全、主権、政治的独立などに関する安保理決議1559号[† 4]が採択された。ハリーリーが2005年2月14日に爆弾テロにより暗殺(英語版)されると政情は悪化、政府と国民との軋轢も拡大し、「杉の革命」と呼ばれる抗議運動が始まった。その要因となった(そしてハリーリー暗殺の実行犯であるとも目された)シリア軍のレバノン駐留に対し国際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍は同年4月に撤退を余儀なくされた。結果、同年5月から6月に行われたレバノン総選挙ではシリアの威嚇も意に介さず、ハリーリーの盟友であり、その後継となったフアード・シニオラを旗頭とする反シリア派が勝利した。しかし、この新たな反シリア内閣も南部を中心に公然たる軍事力を行使する親シリア派を無視できず、結果としてヒズボラなどから6人の親シリア派閣僚を受け入れざるを得なかった。「杉の革命」も参照イスラエル空軍による爆撃(2006年

2006年7月にヒズボラがイスラエル軍の兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(2006年のレバノン侵攻)。続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港などの公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。しかしレバノン軍は基本的に中立を保った。7月27日、国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。7月30日にはカナが空爆され、54人が死亡した。直後にイスラエル軍がレバノン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達したと発表。8月13日にイスラエル・レバノン両政府が国連安保理の停戦決議受け入れを表明。8月14日停戦が発効し、10月1日にイスラエル軍は撤収した。
2000年代-2010年代のレバノン

この一連の戦闘に伴い、レバノン国内でのヒズボラの政治的及び軍事的影響力は以前にも増して高まり、同2006年11月21日ファランヘ党創設者の一族で、反シリアグループの領袖の一人であるピエール・アミーン・ジュマイエル(英語版)産業相が暗殺されるなど、シリア情報部またはヒズボラなどの代理機関によるものと見られる反シリア派へのテロが増大した。さらにハリーリー暗殺の真相を解明するため、反シリア派が国際法廷を設置して親シリア派を裁く動きを進めていた事が両者間の対立に拍車を掛け、暗殺直前の12日には親シリア派閣僚が辞表を提出し、レバノン国内の分断は避けられない情勢となった。

こうした中、2007年11月にラフード大統領が任期満了で退任を迎えたが、親・反シリア両派の対立により大統領選出が行われなかった。対立構造の悪化は散発的な親シリア派によるテロによって加速され、シニオラ政権がヒズボラの有する軍事通信網の解体を宣言した事が親シリア派の決起を招き、2008年5月7日から両派間による大規模な武力衝突が継続している。

2008年8月13日にミシェル・スライマーン大統領とシリアのバッシャール・アル=アサド大統領が会談し、国交正常化に合意した。レバノン政府は2006年のイスラエル侵攻時の被害の修復を進めるとともに、地中海での天然ガス田探査計画を外国企業と進めるほか、観光移設の充実を図るなど経済再建を図った。

2019年、レバノン政府がWhatsAppなどのVoIP通話への課税方針の打ち出したことを端に発し、市民による大規模抗議デモが起きた。
2020年代のレバノン

レバノンは2019年11月から経済危機に陥った[19](「経済」で後述)。2020年3月7日、レバノン政府は2日後の3月9日に償還期限を迎える外貨建て国債(12億ドル相当)の支払い延期を発表。内戦時にさえ起らなかったデフォルト状態となった。原因は、GDPの170%近くに膨らんだ債務による財政危機、それを背景とした外貨準備高の急減など[20]


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