それぞれの楽曲における2人の貢献度の割合は、作詞・作曲の過程によって大きく異なっている。初期のシングル曲「フロム・ミー・トゥ・ユー」、「シー・ラヴズ・ユー」、「抱きしめたい」)は完全な共作曲であるが、多くの場合、一方が作った曲またはアイデアや曲の断片をもう一方が改良したり仕上げたりなどを行っていた[注釈 7]。場合によっては、複数の未完成曲やそれぞれが個別に取り組んでいた曲のアイデアを組み合わせて1つの曲として完成させることもあり、お互いに何らかの意見を得ずに曲を完成させることはまれであった。この楽曲制作方法は、競争心と相互インスピレーション、そして音楽的アイデアの直接的なコラボレーションと創造的な融合の要素を持っており、ビートルズの革新性と成功した主な理由としてしばしば引用されている[9]。時間が経つにつれて次第にどちらかがほとんど作った曲になり、しばしばパートナーはいくつかの言葉や代替コードを提供するのみとなっていった[注釈 8]。
基本的にはリード・ボーカル、または主旋律を歌っている方が主に作詞・作曲を行っていることが多い。但し、レノンが主に作った「ア・ハード・デイズ・ナイト」のように、ブリッジの部分がレノンには高すぎたために、メンバーで一番高い声が出せるマッカートニーに歌わせるなどの例外も一部存在する[11]。また、ジョージ・ハリスン[注釈 9]やリンゴ・スター[注釈 10]がリード・ボーカルをとっている曲があるが、誰が主に作った曲かは曲によって異なっている。
レノン=マッカートニー名義は、ビートルズのイギリスでのデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー」で初めて使用された。ところが、セカンドシングル「プリーズ・プリーズ・ミー/アスク・ミー・ホワイ」、ファーストアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』、サードシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー/サンキュー・ガール」では、一時的に「マッカートニー=レノン」とクレジットされた[12]。4枚目のシングル「シー・ラヴズ・ユー/アイル・ゲット・ユー」では元に戻り、これ以降ビートルズの公式シングルやアルバムではすべて「レノン=マッカートニー」とクレジットされるようになった[注釈 11][注釈 12]。
1976年、マッカートニーのバンド、ウイングスが発売したライブ・アルバム『ウイングス・オーヴァー・アメリカ』では、ビートルズの5曲(「レディ・マドンナ」「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」「夢の人」「ブラックバード」「イエスタデイ」)の作曲クレジットが「マッカートニー=レノン」とされた。このことについて当時レノンと妻のオノ・ヨーコは異を唱えなかった[14]。しかし、レノンの死後、マッカートニーの2002年のライブ・アルバム『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』のライナー・ノーツでもビートルズの曲全てで「マッカートニー=レノン」のクレジットが使われるに至り[15]、オノは提訴を検討していると報道された[13]。これに対してマッカートニーは自分とレノンが過去に、どちらかが望むなら今後クレジットを逆にしていいと合意していたと主張した[16]。結局2003年にマッカートニーは譲歩し、「私は今のままで満足しているし、これまでもそうだった。レノン=マッカートニーは今でも私が誇りに思うロックンロールの商標であり、常にそうであるべきだ」と語った[17]。 2022年現在、レノン=マッカートニー名義の楽曲の著作権管理は以下の通り行われている[18]。
著作権の管理
「ラヴ・ミー・ドゥ」「P.S.アイ・ラヴ・ユー」の2曲は、1978年からマッカートニーのMPLコミュニケイションズが保有。
「プリーズ・プリーズ・ミー」「アスク・ミー・ホワイ」の2曲は、1999年からユニバーサル・ミュージックが保有。
「ペニー・レイン」は、キャサリン・ホームズ・ア・コートが個人で保有[注釈 13]。
その他の楽曲[注釈 14]は、2016年から ソニー・ミュージックパブリッシングが保有。
詳細は「ビートルズ#ビートルズ作品の著作権」を参照
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ブライアン・エプスタインがプロデュースした他のグループ(ザ・フォーモスト、アップルジャックス
^ このことはレコード会社との契約更新に悪影響があることを恐れたアラン・クレインの説得で秘密にされていた。
^ レノンは「ポールとぼくは、15の時に取り決めをつくったんだよ。法律的なものじゃないんだけれども、協力して曲を書こうって決めたとき、それが何であっても、ふたりの名前で出すことにするって取り決めをね」と語っている[3]。