レッド・ホット・チリ・ペッパーズ
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アンソニー・キーディスは、次のように語っている[16]。「バーニー・サンダースという人は正直で感じがよくて、人間味がある。思いやりのある人間というか。なので、この人のためにできることがあればしたいと言ったんだ。もし彼が望むなら、ショウをしてもいいと。驚いたことに9か月後に彼から本当に依頼があった。それが今回のショウに至った経緯だ」

また、フリーは、次のようにコメントしている[17]。「来週、バーニー・サンダースのためのコンサートで演奏できることに興奮しています。自分が信じている人を支援できるのは素晴らしいことだと感じています。レッド・ホット・チリ・ペッパーズとしては、このザ・シアターの公演で支払われる金はバーニー・サンダースにあげたいと提案しました。しかし、彼は受け取らなかった。彼は個人の少額の寄付しか受け取らない。他の政治家はみんなゲスなロビイストからの金を貪欲に掴もうとするでしょう。彼は誠実な人。もし喜んでもらえるなら、高価なチケットを買って、このキャンペーンを手伝って欲しい。本当にありがとう。バーニー・サンダースこそ大統領に」
メンバー詳細は「レッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバーの一覧」を参照
アンソニー・キーディス(Anthony Kiedis)- ボーカリスト作詞家
1962年11月1日生まれ(1983年 - )ミシガン州グランド・ラピッズ出身。175cm。バンド結成時からのメンバーだが、『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』のレコーディングの頃に一度脱退、その後に復帰した。2006年に、自伝『スカー・ティッシュ』を発表。シーシェパードのスポンサーとしての側面も持つ。
フリー(Flea、本名マイケル・バルザリー (Michael Balzary))- ベーシストバッキング・ボーカリスト
1962年10月16日生まれ(1983年 - )オーストラリアメルボルン出身。身長168cm。同じく、バンド結成時からのメンバー。ベースの技量は高く、All Music Guideにおいて「one of rock's most talented bassists(史上最も才能豊かなロックベーシストの一人)」と評されている。これまでも様々なミュージシャンと共同活動を行ってきたが、2009年レディオヘッドトム・ヨークと新バンドを結成。2012年ブラーデーモン・アルバーントニー・アレンとRocket Juice & The Moonを結成。
チャド・スミス(Chad Smith)- ドラマー
1961年10月25日生まれ(1989年 - )ミネソタ州セント・ポール出身。身長191cm。脱退したジャック・アイアンズの後任ドラマーを決めるオーディションで実力を買われて加入。アルバム、「母乳」での一節より、当初はレザージャケットと頭にバンダナを巻いたロッカースタイルがメンバーの間で気に入られず、スキンヘッドにさせようという話があった模様。ソロ活動も精力的で、ドラム・セミナーなどで来日も果たしている。他のメンバーと同様、チリ・ペッパーズ以外にもサイド・プロジェクトを手掛ける。
ジョン・フルシアンテ (John Frusciante) - ギタリストバッキング・ボーカリスト
1970年3月5日生まれ (1989年 - 1992年、1999年 - 2009年、2019年 - )、ニューヨーク出身。元は、バンドの熱狂的なファンの一人だったが、亡くなったヒレルの代役として、当時18歳の若さでバンドに加わる。1992年の日本ツアー中に突如帰国、脱退する。一時は歯を全て失ってしまうほどの薬物依存に陥ったが、後に克服してバンドに復帰。2009年に自分の音楽的志向を突き詰めたいとして友好的に脱退。2019年12月、二度目の復帰が発表された。チリ・ペッパーズとしてだけでなく、ソロ・アルバムも数多く発表しており、2004年には6作ものソロ作品をリリースした。ジョシュ・クリングホッファーらとの別バンドなど、活動は多岐にわたる。
元メンバー詳細は「レッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバーの一覧」を参照
ギタリスト

アンソニーは、「ギタリストの座が安定しないのは、誰もヒレルの穴を埋められないから」とコメントしている。ジョン・フルシアンテを含めて、ギタリストの座は数々のメンバーチェンジを経験した。また、ジョンを含むこの中の多くがストラトキャスターの使い手である。

ヒレル・スロヴァク (Hillel Slovak) (1983年以前、1985年 - 1988年) - 結成メンバー。ユダヤ系アメリカン。1988年6月、ヘロイン摂取過多により死亡。当初は、他の親友とのバンド(チリ・ペッパーズよりも古い)とのかけもちであり、そちらの契約の際に一時的に脱退、セカンド・アルバムで復帰し、サード・アルバム作成にも参加した。アンソニー、フリーの無二の親友であり、フリーにロックラジオのチャンネルを紹介しベースを1から教え、ロックミュージックに引き込んだ人物。彼のギタープレイは、初期バンドサウンドに彩りを与えた。少年期のジョン・フルシアンテの憧れのギターヒーローの一人であり、ヒレルもジョンと同じく絵画が得意だった(4thアルバム「母乳」のアートワークの裸婦画は、生前にヒレルが描いたもの)。生前に、アンソニーと共作した未発表の曲があることが知られているが、アンソニーは「ヒレルが弾かなければそれは違う曲」と、それを音源にする気はない事を明言している。チリ・ペッパーズのギタリストと言えば、フルシアンテという印象が強いが、バンド無名時代からのファンのヒレルへの人気は根強いものがある。本国では、いくつかファンブックも発売されており、実弟のジェイムズ・スロヴァクの著書が最も有名。


ジャック・シャーマン (Jack Sherman) (1983年 - 1985年) - ヒレルが他のレコード会社へ移籍した際に、臨時オーディションで加入、ファースト・アルバム作成に参加した。アンソニー曰く、「テクはあるがオタクなギタリスト」で、弦で指を切ってピックアップを血に染めてまで破天荒なプレイをするようなヒレルに対し、ネックに潤滑スプレーをつけるほどの几帳面なジャックは、アンソニーとフリーの気性には合わず喧嘩が絶えなかった、とアンソニーの自伝で言及されている。


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