こうした流れのなかで、マッカーサーは数次にわたり首相・吉田茂に対し「共産分子の活動に関する書簡」を送付。各報道機関は1950年7月28日から書簡の趣旨に従い社内の共産党員、同調分子らに解雇を申し渡し始めた。初日の解雇数だけでも朝日新聞社72人、毎日新聞社49人、読売新聞社34人、日本経済新聞社10人、東京新聞社8人、日本放送協会104人、時事通信社16人、共同通信社33人に及んだ[9]。また、映画会社でも第一陣として東宝13人、松竹66人、大映30人をリストアップ。この中には映画監督や脚本家、俳優などが含まれた[10]。また、同時期に激しい労働争議(東宝争議)が行われていた東宝では、この後もレッドパージを口実に多数の社員を解雇。事態を沈静化させることに利用した。
さらに同年9月の日本政府の閣議決定[11]により、報道機関や官公庁や教育機関や大企業などでも日共系の追放(解雇)が行われていった(なお、銀行業界などでは「当職場に共産党員は居ない」などとして、日共系の追放が最小限度に留まった例や、大学では日共系の追放がほとんど行われなかった例もあったし、逆に反対派を共産党員だとして名指しして解雇させ主導権を奪った国労のような例もあった)。
当時の日本共産党は同年1月にコミンフォルムから『恒久平和のために人民民主主義のために!』において平和革命論を批判されたことにより、徳田を中心とする「所感派」と宮本顕治を中心とする「国際派」に分裂した状態だったこともあり、組織的な抵抗もほとんどみられなかった[注 2]。この間の6月25日には朝鮮戦争が勃発し、「共産主義の脅威」が公然と語られるようになった。
公職追放の指令それ自体は1952年のサンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。(「教職追放の解除」により、民主化には不適合と見なされた軍国主義者・超国家主義者が、学校教育現場に戻った。)
職場でレッドパージを受けた一般の労働者で復職できたものはほとんどおらず、またレッドパージを受けたことがわかると再就職先にも差し支える状態であったといわれる[12]。
なお、1950年にはアメリカ合衆国でも共産主義者の追放(マッカーシズム)が行われた。この一連の動きも含めた全てをレッドパージと呼ぶ場合もある。詳細は赤狩りの項を参照。 また、雇用主を相手取った訴訟は、主権回復前の1952年4月2日の共同通信事件の最高裁決定で報道機関に対するレッドパージが、そして主権回復後の1960年4月18日の中外製薬事件の最高裁決定でも重要産業に対するレッドパージが、いずれも「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」として原告敗訴となり、以降の関連訴訟の判決の判例となっている。
裁判