レシェク1世
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そこでレシェク1世はハンガリーと共同でこの地域に進出することを決め、ハンガリーアンドラーシュ2世の息子カールマーンに自分の娘サロメアを嫁がせ、彼をハールィチの君主とした上でハンガリー王の封臣とし、この主従関係を使ってポーランドとハンガリーの両者がこの地域を支配することにした。しかし亡きロマン大公の息子ダヌィーロ1214年にハールィチ(ガリツィア)における勢力を回復し、同地域を支配しようとしたポーランドと、カトリックの勢力を東方に拡大しようとしたローマ教会の狙いは、失敗に終わった。

1227年11月24日、レシェク1世はゴンサヴァで開催された諸公会議に出席した時に暗殺(英語版)された。暗殺を命じたのは東ポモジェのグダニスク公シフィエントペウク2世だったと思われ、シフィエントペウク2世の義弟でミェシュコ3世の孫であるヴィエルコポルスカヴワディスワフ・オドニツが裏で糸を引いていたとされる。この事件はレシェク1世がシフィエントペウク2世に自らの権威に服するよう求めたことが原因だったと言われている。

有名な逸話に、レシェク1世が教皇に対し、パレスチナには蜂蜜酒ビールも無いのでポーランドの騎士達は十字軍には加われない、と十字軍参加の申し出を断ったというものがある。
子女

1207年、ハールィチ・ルーシの周辺部を領するルーツィクイングヴァルの娘、グジミスワヴァ(1258年没)と結婚した。この結婚はポーランドの東方拡張政策の一環でもあった。夫妻はあいだに1男1女をもうけた。
サロメア(1211/1212年 - 1268年) - アンドラーシュ2世の息子カールマーンと結婚、福者

ボレスワフ5世(1226年 - 1279年)

脚注

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主に: 脚注形式での出典の明記 (2015年11月)
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参考文献

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