1950年代に入ると後述するようにキングストン市内にもレコーディングスタジオが開設されはじめる。以後ジャマイカ産のR&Bやジャズをプレイできるようになった各サウンド・システムはダブ・プレートを量産し、互いに激しく競い合うようになった。特に1952年に稼動開始したデューク・リードのトロージャン (Trojan) と、1954年に稼動開始したコクソン・ドッドのサー・コクソンズ・ダウンビートはライバルとして1970年代までジャマイカ音楽を牽引する存在となった[53]。
これらのサウンド・システムとそこに集まる観衆の音楽的嗜好は、スカ誕生からダンスホールレゲエ期に亘る全てのジャマイカ音楽の変遷、流行に影響を与えている[54]。また、その後サウンド・システム文化はジャマイカからの移民によってイギリス、アメリカをはじめ海外にも持ち込まれていった。1967年にニューヨーク市ブロンクス区へ移住したジャマイカ人DJのクール・ハークは当地でハーキュローズというサウンド・システムを立ち上げ、ヒップホップ音楽の誕生に大きな影響を与えた[13]。
レコーディングスタジオとレーベルの開設ランディーズ・レコードのダブ・プレート・カッティングマシーン
1951年にスタンレー・モッタ (Stanley Motta) がジャマイカ国内初のレコーディングスタジオMRS (Motta's Recording Studio) を[55]、1957年にはケン・クーリ (Ken Khouri) が後にタフ・ゴング・スタジオとなるフェデラル・レコーディング・スタジオ (Federal Recording Studio) を設立した[56]。1958年には後にジャマイカ首相となるエドワード・シアガのWIRLが、1959年にはデューク・リードのトレジャー・アイルとクリス・ブラックウェルのアイランド・レコードが、さらに1963年にはコクソン・ドッドのスタジオ・ワンが創業を開始すると[注釈 18]、その後ジャマイカには録音スタジオとレコードレーベルが次々に誕生していった[51][57]。 1939年、ハム技師ジョン・グライナン (John Grinan) は政府の認可を受けジャマイカ初のラジオ放送局VP5PZを開局した[57]。VP5PZは第二次世界大戦勃発を受け、戦時放送局ZQIへと引き継がれた[57]。終戦後、政府は民営放送を認可し1950年にはJBC
ラジオ局の開局
ジャマイカ独立-スカの誕生詳細は「スカ」を参照
ジャマイカは1959年に自治権を獲得し、1962年には英連邦王国として独立を果たした。これを機にジャマイカのミュージシャンが自らのアイデンティティを象徴する音を模索し始めたことや、サウンドシステムやプロデューサー間の競争が激化したことによって生まれた音楽がスカであった。スカは、カリプソ、メント等の従来のジャマイカ音楽に、ジャズやリズム・アンド・ブルースなどのアメリカ合衆国の音楽が融合し誕生した[6]。ウォーキングベース(英語版)がリズムをリードする点、ホーンセクションが主旋律を担当することが多い点などはジャズと類似しているが、ビートがジャズのようにシャッフルせず、1小節の2拍目と4拍目にイーブンにアクセントを置くアップテンポな裏打ちのリズムはスカ特有のものである[60]。スカ誕生によってジャマイカ音楽は新たな時代を迎え、ヒッグス・アンド・ウィルソンが1959年に発表した「マニー・オー (Manny Oh)」[注釈 21]は2万5千枚を超える売上を記録し、ジャマイカの音楽産業における最初のヒット曲となった[61]。また 、同年プリンス・バスターがプロデュースしたフォークス・ブラザーズ(英語版)「オー・キャロライナ(英語版)」はカウント・オジーによるナイヤビンギドラムを取り入れており、ラスタファリ運動の精神をジャマイカ音楽に反映させた最初の楽曲であった[62]。
また、中国系ジャマイカ人(英語版)のバイロン・リー(英語版)が映画『007 ドクター・ノオ』(1962年公開)に出演したことなどをきっかけに、スカはジャマイカの上流階級や海外にも徐々に認知を広げていった[63]。1964年には当時のジャマイカで最も有名なスタジオミュージシャンであったドン・ドラモンド、ジャッキー・ミットゥらによってスカタライツが結成され[64]。また同年にミリー・スモール(英語版)の歌った「マイ・ボーイ・ロリポップ(英語版)」は全世界で600万枚を売り上げる国際的ヒット曲となり[65]、スカ人気は頂点に達した。しかし、そのわずか二年後の1966年後半にはスカ人気は終焉することとなる[66]。
ロックステディの誕生アルトン・エリス(2007年)プリンス・バスター(2008年)詳細は「ロックステディ」を参照
1966年に発表されたホープトン・ルイス(英語版)による「テイク・イット・イージー (Take It Easy)」やアルトン・エリス「ロック・ステディ (Rock Steady)」などの楽曲を端緒にジャマイカではスカに代わりロックステディが流行する[67][68]。ロックステディはスカよりも遥かにゆっくりとした新しいリズムワンドロップを強調するドラム、シンコペーション感覚のあるメロディアスなベースラインと、甘く滑らかなサウンドを特徴とする[67]。ロックステディのテンポがスカよりも遥かにスローダウンした理由は、単なる音楽的流行の変化という説と、1966年の夏にジャマイカを襲った激しい熱波によって、人々がアップテンポなスカではダンスすることが出来なくなったためという説[67]、さらにスカタライツのメンバーであったドン・ドラモンドが起こした殺人事件を機にスカへのバッシングが行われたためという説がある[69]。
このロックステディ期にはインプレッションズなどのソウル・ミュージックに影響を受けウェイラーズ、ヘプトーンズ、テクニクス、パラゴンズ などのトリオによるコーラスグループが流行した[67]。さらにジャマイカ国内の社会状況の悪化などの影響からデリック・モーガン「タファー・ザン・タフ (Tougher Than Tough)」やプリンス・バスター「ジャッジ・ドレッド (Judge Dread)」などのルードボーイを主題とした歌詞が流行した[70]。