レゲエ
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中東

1985年、イスラエルテルアビブに「ソウェト (Soweto)」というクラブがオープンすると、ジャマイカ系イギリス人のサウンドマン、ラス・マイケル[注釈 30]が招聘され、人気を博した[119]。マイケルの影響でアミル (Amir)、チュル (Chulu)、シルヴァー・ドン(Silver Don) といったレゲエミュージシャンと幾つかのサウンドシステムが活動を開始した[119]。ソウェトは1997年に閉店したが[119]、2000年代もバンドのハティクヴァ6(英語版)などが活動している。ユダヤ系アメリカ人レゲエ歌手のマティスヤフもしばしばヘブライ語で歌唱している。

レバノンではベイルートジュニーエを中心に1990年代にアフリカからの出稼ぎ労働者によってレゲエが紹介され、1996年にはルーディ (Rudy) が同国初のレゲエミュージシャンとして活動を開始した[120]。2000年代以降はジャミット・ザ・バンド (Jammit The Band) や、ラスタ・ベイルート (Rasta Beirut) が人気である[120]
カリブ海・中米

1970年代にはパナマでスペイン語レゲエ(英語版)が誕生し、ラテンアメリカ諸国やスペイン語話者の多い国々に広がっていった。1990年代前半のプエルトリコではスペイン語レゲエとサルサやヒップホップなどの音楽が混交し、レゲトンというジャンルが生まれた。レゲトンは2004年頃、ダディー・ヤンキー「ガソリーナ(英語版)」、ニーナ・スカイ(英語版)「ムーブ・ヤ・ボディ(英語版)」、ノリ(英語版)「オイ・ミ・カント(英語版)」などのヒットによってその知名度を拡大させた。

その他のカリブ海地域出身のレゲエアーティストとしてはマルティニークのカリ(英語版)、グアドループのアドミラル・T(英語版)、アメリカ領ヴァージン諸島のミッドナイト(英語版)やプレッシャー (Pressure) らがいる[117]
南米オロドゥン(1998年)

ブラジルでは1970年代よりサンバとルーツレゲエがクロスオーバーしたサンバヘギ(英語版)というフュージョンジャンルが生まれた[121]。1979年にはジルベルト・ジルがボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ「No Woman No Cry」のポルトガル語カバー「Nao Chore Mais」をヒットさせた[117]バイーア州オロドゥンは1980年代以降各地のカーニバルで演奏している他、10枚以上のサンバヘギのアルバムを発表している[121][122]
北米(アメリカなど)バッド・ブレインズ(1983年、アメリカ合衆国)

アメリカ合衆国においては前述の通り、72年のポール・サイモンとジョニー・ナッシュのヒットの後、70年代後半には、しばらく空白が生まれた。アメリカでレゲエが盛んな地域は1960年代後半よりジャマイカからの多くの移民が居住し、人口も最多のニューヨーク市だった。ジャマイカ移民は、DJクール・ハークを筆頭に、ニューヨークにサウンドシステム文化を伝え、ヒップホップ音楽の誕生に影響を与えた。1990年代前半にはディージェイのジャマルスキーやマッド・ライオン(英語版)がヒップホップ・グループのブギーダウン・プロダクションズに参加するなどレゲエアーティストとヒップホップアーティストが積極的に交流した結果、ラガ・ヒップホップというフュージョンジャンルが誕生した[123][124]。他にもバッド・ブレインズフージーズノー・ダウトマティスヤフ、グラウンデーション(英語版)、マイケル・フランティ(英語版)といったミュージシャンがレゲエとヒップホップやロック、ジャズとのクロスオーバーを試みている[98][124]。一方で伝統的なルーツレゲエの分野ではビッグ・マウンテンなどが活動している。カナダではトロントにジャマイカ人移民居住地域があり、スノー、リリアン・アレン(英語版)などが活動している。
オセアニア

オーストラリアではジャマイカからの移民を受け入れていたため、1960年代後半よりレゲエとサウンドシステムが存在していた[125]。1970年代後半からはノー・フィックスド・アドレス(英語版)やカラード・ストーン(英語版)などが活動している[125]ニュージーランドでは1970年代後半よりハーブス(英語版)などが活動している他、2000年代はファット・フレディーズ・ドロップ(英語版)などが人気があり、レゲエは人気の高いジャンルの一つとなっている[126]。また、ハワイでは1980年代からハワイアン・ミュージックとレゲエがクロスオーバーしたジャワイアンというフュージョンジャンルが生まれた[127]
アジア

アジアでレゲエが盛んな地域は日本フィリピンである。フィリピンでは特にヴィサヤ地方セブドゥマゲテでレゲエ人気が高く[128]、1970年代後半よりココジャム (Cocojam) やジュニア・キラト(英語版)といったバンドがセブアノ語(ヴィサヤ語)やワライ語で歌い、活動している[128]。フィリピン人によるレゲエは「ピノイ・レゲエ(英語版)」 と呼ばれている[129]

1990年代前半にインド系イギリス人のディージェイ、アパッチ・インディアン(英語版)はダンスホール・レゲエとバングラ・ビートを融合させ、バングラガ(英語版)というジャンルを開拓した[130]大韓民国ではレゲエは退廃的な音楽とされ視聴が禁止されていたが[131]、1992年に視聴解禁されると同時にUB40好きにならずにいられない[131]、1993年にキム・ゴンモがレゲエのテイストを取り入れ韓国風にアレンジした『言い訳』がヒットした[132]。以後レゲエバンドのドクターレゲエや、ストーニー・スカンク、レゲエを取り入れた韓国ポップグループのRoo'Raが登場した[131]

インドネシアのラス・ムハマド (Ras Muhamad) は2008年に「Musik Reggae Ini」をヒットさせ、AMI Awards(英語版)を受賞した[133]

スリランカでは、2000年から活動を開始したロハンタ・レゲエ (Rohantha Reggae) がレゲエの第一人者である[134]。ロハンタ・レゲエは2007年に同国出身歌手として初めてアメリカ合衆国のレーベルから作品をリリースした[134]
日本日本のレゲエミュージシャンの一覧については「Category:日本のレゲエ」を参照

日本では1970年代後半からフラワー・トラベリン・バンドペッカー豊田勇造上田正樹らがレゲエを取り入れた音楽を制作していた[135][136]。1979年にボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズが来日公演を行ったことをきっかけにレゲエ人気が高まり[135]、1980年にはペッカーがアルバム『ペッカー・パワー』、『インスタント・ラスタ』を、豊田がアルバム『血を越えて愛し合えたら』をそれぞれジャマイカで制作し発表した[135][137]


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