その後もキング・ジャミーをはじめ、元ルーツ・ラディックスのスティーリィ&クリーヴィー(英語版)や、ボビー・デジタル・ディクソン(英語版)といったプロデューサー達がコンピュータライズドのリディムトラックを大量生産し、ニンジャマン、シャバ・ランクス(英語版)、スーパーキャット、バウンティ・キラー(英語版)、ビーニ・マンなど多くのDJによるヒット曲を生んでいった[92][96]。これら80年代半ばから2000年代まで流行した、打ち込みによる高速ダンスホールレゲエは特にラガと称される[98]。ラガおよびダンスホールレゲエはそれまでのレゲエと全く異なる独自のサウンドへと進化したため、 ⇒www.reggae-vibes.comなどではレゲエチャートとダンスホールチャートがそれぞれ設けられている。
また、1985年にはグラミー賞にベスト・レゲエ・レコーディング部門が設けられ、ブラック・ウフル『アンセム (Anthem)』が第一回受賞作品となった[注釈 27]。
1990年代以降ルチアーノ(2008年、アメリカ合衆国)
1990年代中頃、ラスタファリアンの歌手ガーネット・シルクの事故死などをきっかけとしてラスタファリ運動とルーツレゲエが再び脚光を浴び、ルチアーノ(英語版)、ケイプルトン、シズラ等のアーティストが登場した。また、メジャーレイザーなどのテクノやエレクトロニカ系アーティストのよる新たなレゲエの解釈や、ジャマイカのダンスホールとイギリスのニュールーツとの交流、ダミアン・マーリーらによるヒップホップとのクロスオーバーなど新たな動きが現れた。2000年代前半にはダンスホール系ディージェイのショーン・ポールが国際的に成功した[99]。
イギリスでの受容と発展
移民第一世代によるレゲエ2007年のノッティング・ヒル・カーニバル。スティールバンドの演奏をサウンド・システムで再生している。
1948年、イギリス政府は第二次世界大戦戦後復興のため国籍法を改正し、ジャマイカなど植民地の国民にイギリスの市民権を付与したうえ、積極的に移民として受け入れた[100][101][102]。そのため、ジャマイカからイギリスへの移民は最も多かった1961年には年間3万9千人を数え[100]、1971年に移民法が、1981年に国籍法がそれぞれ改定され移民が制限されるまで増え続けた[100][102][103]。この移民の中にはミュージシャンやサウンドマンも存在し、1960年前後には小規模ながらもサウンド・システムが出現した[104]。1964年にはノッティング・ヒルで第一回ノッティング・ヒル・カーニバル(英語版)が開催され[105]、レゲエ、カリプソをはじめとするカリブ海の音楽はサウンド・システム文化とともにその知名度と人気を拡大していった。
在英レーベルによるレゲエのポピュラー化トロージャンのレコード
ユダヤ系アメリカ人のエミール・E・シャリットは、1960年にブルービート・レコーズ(英語版)を立ち上げ、ジャマイカ産のリズム・アンド・ブルースやスカをリリースした。これを端緒として、イギリスにはカリブ海の音楽を取り扱うインディペンデント・レーベルが続々と設立された。中でもクリス・ブラックウェルが1962年8月のジャマイカ独立を機にジャマイカからイギリスに移転させたアイランド・レコードは、1964年、ミリー・スモールの「マイ・ボーイ・ロリポップ」を全世界で600万枚売ることに成功した[104]。
さらに1967年、ブラックウェルはデューク・リードのトレジャー・アイルと契約し、トロージャン・レコード(英語版)を設立する。このレーベルはジャマイカ音楽をイギリスへ配給し続けた[104]。同レーベルからの楽曲群はとりわけモッズ、スキンヘッズたち若者に支持され、デイヴ・アンド・アンセル・コリンズの「ダブル・バレル」は1971年5月1日から2週間UKシングルチャート1位を獲得するヒットとなり[106]、また、ハリー・J・オールスターズ(英語版)の「リキデイター(英語版)」はウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFCを皮切りに、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC、チェルシーFCの応援歌に採用されていった。これらの楽曲群はスキンヘッド・レゲエと呼ばれ、その後の2トーン・ムーブメントに大きな影響を与えた。
アイランド・レコードは1972年にジミークリフ主演映画『ザ・ハーダー・ゼイ・カム』のサントラ盤を、1973年4月13日にはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズのメジャーデビューアルバム『キャッチ・ア・ファイア』をリリースする。