レオ1世_(東ローマ皇帝)
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レオ1世は、皇帝就任に際してコンスタンティノープル総主教によって戴冠された初めてのローマ皇帝であると考えられている[1][2][4][5][6]。これ以降、総主教による戴冠は東ローマ帝国における皇帝就任の伝統となり、皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、総主教の権威拡大と政治介入という通弊を招くことになった[1][4][7][注 1]。7世紀になると皇帝歓呼の場所は競馬場から宮殿・聖ソフィア教会へ移るが、並行して皇帝自らが後継者を共同皇帝として戴冠するようになった[注 2]。この聖職者による皇帝戴冠という東ローマ帝国の風習は次第に古代ローマの伝統を押しのけ中世的ローマ戴冠式の本質的部分となり[7]、後にはカール大帝オットー1世の戴冠を経てローマ帝国の西方領土にも浸透することになった。

また、彼は法律をラテン語ではなくギリシャ語で制定した最初のローマ皇帝ともされる。
子女・子孫

妻(皇妃)ウェリーナ(432年 - 484年)との間に1男3女がいる。

アエリア・アリアドネ(450年頃 - 515年)- ゼノンと結婚。ゼノンの死後にアナスタシウス1世と再婚したが、子供はいない。子女はゼノンとの間にレオ2世とヒラリアの1男1女のみ。子供達は子女を残していない為、子孫はいない。

レオンティア(457年生誕 - 479年以降) - 最初にアスパルの次男フラウィウス・ユリウス・パトリキウス(422年 - 471年)と結婚。後にレオ1世の先帝マルキアヌスの孫息子(娘の子)で西ローマ帝国皇帝アンテミウスの息子の1人マルキアヌス(活動期間は少なくとも469年から484年)と471年頃再婚。いずれの夫との間にも子女は確認できない。

ヘレナ(455年頃生誕 - 没年不明) - 475年にWachtang1世(440年 - 502年、父方の祖母マリア(385年頃生誕)はローマ皇帝ヨウィアヌスの孫娘でウァロニアヌスの娘)と結婚。2男(Leon、Mihrdat)を儲けた。子女のうち、Leonの子孫が存続。Leonの昆孫(玄孫の孫)デメトリオス(645年頃 - 665年以降)はヘラクレイオス王朝の第2代皇帝コンスタンティノス3世の次男テオドシオス(632年頃生誕)の娘(655年頃生誕)と結婚、この夫妻の子孫が後世に存続している。更にデメトリオスの母方の祖父の兄ステファンの子孫も続いている。

男子(463年 - 463年)- 名前不詳。夭折。

脚注[脚注の使い方]^ a b c d 松原2010、[レオー(ン)1世]。
^ a b エドワード・ギボンローマ帝国衰亡史』5巻、岩波書店、村山勇三(訳)、1954年、p.263。
^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
^ a b 尚樹1999、p.51。
^ オストロゴルスキー2001、p.84。
^ レオ1世に先だってマルキアヌスが先例であったとする説もある。(オストロゴルスキー2001、p.119)
^ a b オストロゴルスキー2001、p.85。


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