ゼノンの死後、59~60歳の高齢で枢密院警護長であったアナスタシウスが単性論派の代表として皇帝に選出された。ゼノンの皇后アリアドネと結婚していたことでレオ朝の一人として数えられている。即位直後、先帝ゼノンの基盤であったイサウリア人を追放したため、492年にイサウリア人が反乱を起こした。鎮圧に取りかかったアナスタシウスは497年にようやくこれを終えた。同年に、先帝ゼノンの命令でオドアケルを討ち滅ぼした東ゴート王テオドリックのイタリア王即位を承認した。
ゼノンのばら撒き政策で破綻寸前だった帝国財政を優れた手腕で立て直すなど、優秀な面を見せたアナスタシウスであるが、宗教政策は困難を極めた。単性論寄りであったアナスタシウスはカトリック教会と対立し、また当時のコンスタンティノープル総主教も単性論寄りであったためにローマ教皇フェリクス3世によって破門されるなど、東西教会は分裂の様相を強くした。そのため、後世のキリスト教歴史家からの評価は極めて低い。
518年、86~87歳という高齢で没した。元老院とプラエトリアニは後継の皇帝に、これまた高齢で当時68歳だったユスティヌス1世を皇帝に選んだ。このユスティヌス1世の甥(姉ウィギランティアの息子)にして後継者が、旧西ローマ帝国領の大部分を一時的に回復して東ローマ帝国の最大版図を実現し後世、大帝と呼称されるユスティニアヌス1世である。ユスティニアヌス1世の再征服事業の基盤はアナスタシウス1世が実施した様々な改革だと言われている。 レオ朝による東ローマ帝国支配が終わった後も、レオ1世の娘ヘレナ(アリアドネの妹、ゼノンとアナスタシウス1世の義妹、レオ2世の叔母)の系統が存続している。ヘレナの仍孫(玄孫の曾孫)デメトリオスはヘラクレイオス王朝第2代皇帝コンスタンティノス3世の次男テオドシオス(632年生誕)の娘(655年生誕、コンスタンス2世の姪、コンスタンティノス4世の従妹)と結婚、子孫が続いている。更にデメトリオスの母方の祖父の兄ステファンの子孫も存続している。なお、コンスタンティノス3世の父方の祖母エピファニア(575年頃生誕)はユスティヌス1世の甥ユスティニアヌス1世の妹ウィギランティアの曾孫である為、レオ朝とユスティニアヌス王朝、ヘラクレイオス王朝の三王朝が縁戚関係となっている。
レオ1世の娘ヘレナの子孫
系図
? レオ1世 ウェリーナ バシリスクス
ユリウス・ネポス 娘 ゼノン アリアドネ アナスタシウス1世
レオ2世
脚注[脚注の使い方]
参考文献
関連項目
テオドシウス朝
ユスティニアヌス朝
東ローマ帝国
表
話
編
歴
東ローマ皇帝
テオドシウス朝
アルカディウス383-408
テオドシウス2世408-450
マルキアヌス450-457
レオ朝
レオ1世457-474
レオ2世474
ゼノン474-491
バシリスクス(対立皇帝)475-476 | 断絶 | アナスタシウス1世491-518
ユスティニアヌス朝
ユスティヌス1世518-527
ユスティニアヌス1世527-565
ユスティヌス2世565-578
ティベリウス2世578-582
マウリキウス582-602
フォカス602-610
ヘラクレイオス朝
ヘラクレイオス610-641