レオ・ドローチャー
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死後の1994年に、監督としてベテランズ委員会の選考によってアメリカ野球殿堂入りを果たしている。
太平洋クラブライオンズ監督

1976年には太平洋クラブライオンズがドローチャーを監督に招聘(しょうへい)した。契約までこぎつけたものの、直後にドローチャーは病気で倒れてしまい、結局ドローチャーがついに来日することはなかった[2]。用意されていた背番号は2。

ドローチャーの招聘をライオンズのフロントが発表した時、日本の野球ファンや野球マスコミからは驚きの声が上がったものの、一方で「はったりではないか」という疑問の声も上がっていた。果たしてドローチャーの来日は実現しなかったためにマスコミから「話題作りではないか」と批判の声が上がった。当時、太平洋クラブの選手だった真弓明信が2012年に「ドローチャーの時は最高やったね。キャンプになっても監督が来ないんだから。で、ある時、監督から話があるからということで、選手が集められて行ってみると、そこにはテープレコーダーだけが置いてあって、英語で何かバーッとしゃべってさ。テープの声を聞いただけで、おじいちゃんだってわかるぐらいの年寄り[3]」「こんな言い方したら悪いけど、初めから鬼頭さんが監督をしとったら、話題性がないんで、ドローチャーの名前を使ったんじゃないかのかなぁ」と語っている[4]。しかし、オーナーの中村長芳青木一三坂井保之らは強く否定しあくまで「病気のために来日断念となった」と主張した。メジャーリーグ通の伊東一雄も、このドローチャーとライオンズの契約書を坂井から見せられ、それは紛れもないドローチャーの署名と共に年俸5万ドルとあったという[1]

ドローチャーの後任監督はヘッドコーチの鬼頭政一が就任したが、太平洋クラブはこのドタバタ劇もあってチームの士気が上がらず、最下位に転落した。

なお、ドローチャーはこの時71歳で、生まれた1905年は日本の元号にして明治38年で1976年当時明治生まれの監督、コーチはすでに各球団から姿を消していた(当時の球界最高齢は1912年大正元年〉生まれで64歳の阪急西村正夫2軍監督である)。
詳細情報
年度別打撃成績



度球













































O
P
S

1925NYY2111000000000000.000.000.000.000
192810232829646808601003114722352.270.327.338.665
19291063853415384450983231734333.246.320.287.607
1930CIN11938535431861533116320920245.243.287.328.615
193112138536126821151106290618032.227.264.294.557
1932143504457439922511343331036140.217.275.293.569
1933165851611101153034053.216.273.294.567
STL12343039545102184213441382613213.258.306.339.645
'33計139488446511131943149443113013716.253.302.334.636
193414654150062130265317570263324016.260.308.350.658
193514354651362136235819378442904616.265.304.376.681
193613654951057146223117758382924718.286.327.347.674
19371355204774697113111747653803617.203.262.245.507
1938BRO1415324794110518511365633473309.219.293.284.577
19391164213904210821611443423271249.277.325.369.695
1940621751601037911511413120136.231.285.319.604
1941184342212100136001031.286.302.310.612
1943619181400041001021.222.263.222.485
19452551100012000000.200.200.200.400
通算:17年1637582753505751320210562417145673158237718480109.247.299.320.619

記録

ワールドシリーズ出場:2回(1928,1934年)

オールスターゲーム出場:2回(1936,1938年)※1940年は選出のみ

最高守備率(遊撃手):3回(1933,1936,1938年)

年度別監督成績

年度チームリーグ試合勝利敗戦勝率順位特記
1939年
BRONL1578469.5493位年間最優秀監督賞
1940年1568865.5752位
1941年15710054.6491位
1942年15510450.6752位
1943年1538172.5293位
1944年1556391.4097位
1945年1558767.5653位
1946年1579660.6152位
1948年733537.4863位
NYG794138.5195位
1949年1567381.4745位
1950年1548668.5583位
1951年1579859.6241位年間最優秀監督賞
1952年1549262.5972位
1953年1557084.4555位
1954年1549757.6301位WS制覇、年間最優秀監督賞
1955年1548074.5193位
1966年CHC16259103.36410位
1967年1628774.5403位
1968年1638478.5193位
1969年1639270.5682位
1970年1628478.5192位
1971年1628379.5123位
1972年914644.5112位
HOU311615.5162位
1973年1628280.5064位
1976年太平洋PL000-----開幕前に辞任
通算373920081709.540

背番号

7 (1929年)

10 (1932年 - 1933年途中)

2 (1933年途中 - 1955年、1966年 - 1973年、1976年)

脚注^ a b c 伊東一雄『メジャー・リーグ紳士録』ベースボール・マガジン社、1997年、110-111頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-583-03411-3。 
^ “【12月17日】1975年(昭50) えっ「五分五分」なのに発表!ライオンズ、幻のドローチャー監督”. 日めくりプロ野球. スポーツニッポン新聞社. 2008年12月18日時点の ⇒オリジナルよりアーカイブ。2017年9月18日閲覧。
^ 野球小僧』6月号、白夜書房、2012年、209頁。


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