アルフォンソ3世の時代になると、植民活動を活発化させ、教会堂の建設事業を積極的に行うなどキリスト教布教にも力を注いだ[9][15]。アルフォンソ3世の「征服」を強調する見方があるが[16][17]、アルフォンソ3世による発展は全く「平和的」なもので、レコンキスタという言葉が想像させる征服的なものではないという見方もある[18]。アルフォンソ3世は3人の子に王国を分割相続させた。 910年、ガルシア1世は自身が相続した王国の首都を軍事的拠点のレオンへ遷都して、レオン王国(レオン帝国[19])と呼ばれるようになった。 分割相続で成立したレオン・ガリシア・アストゥリアスはそれぞれ別の王を戴きつつ、レオンのガルシア1世がそれらをまとめて緩やかな連合を形成した。 一方同時期のイスパニア辺境は弱小国家の集まりであり、イスラム教国に対抗することなど不可能で、アル・アンダルスとは友好的あるいは従属的な関係を結んでおり、ナバラ王国もイスラム教国に対し友好的・従属的地位にとどまり、アラゴン伯領もレコンキスタ精神からはほど遠い状態にあった[20]。 一方のアル・アンダルスでは、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世やハカム2世の宮廷は北部キリスト教国のみならず遠くビザンツ帝国や神聖ローマ帝国からも使節を迎え[21]、ナバラ王国やレオン王国に遠征してこれを屈伏させた[22]。 11世紀にはいると、サンチョ3世の下でナバラ王国が台頭した。王は巧みな婚姻政策でカスティーリャ伯領・レオン王国などの周辺キリスト教国を併合し、「イスパニア皇帝」を自称した[23]。 サンチョは1034年にレオンを占領すると、「サンチョ皇帝」と刻まれたコインを発行した[24]。 キリスト教諸国 レオン王国|カスティーリャ伯領|ナバーラ王国|アラゴン伯領|カタルーニャ君主国
レオン王国
ナバラ王国による占領
レオン=カスティーリャ王国
フェルナンド1世1031年のイベリア半島
後ウマイヤ朝が滅亡した直後のイベリア半島
イスラム教タイファ諸国 アルコス|アルバラチン
その後、配下のカスティーリャ伯が独立し王国となると勢力を弱めていく。1037年、カスティーリャ王国のフェルナンド1世がレオン王国の継承権を持つと、カスティーリャ王国に併合されカスティーリャ=レオン王国になる。
その後フェルナンド1世は南へ遠征し、後ウマイヤ朝滅亡後にアル・アンダルスに割拠したタイファ諸国を攻撃して金による貢納(パリア)を求めた。パリアの支払いはイスラム法に根拠のないものであったので、タイファ諸国内部の社会不安を増大させ、これらを弱体化させる効果があった。またこれによりカスティーリャ=レオン王国内での貨幣流通が活発となり、経済の発展にも寄与した[25]。しかし貢納金を支払わせるということは、逆にフェルナンドをしてこれらタイファ国を保護する義務を生じさせるものでもあった。
フェルナンド1世の晩年にはいくつかのアル・アンダルスの都市を征服するなどレコンキスタ的な行動が見られたが、同じキリスト教を奉ずる国々との戦争も頻繁に行われた。フェルナンドとその息子のサンチョ2世はタイファ国の救援要請を受けて、これを攻めたキリスト教国と干戈を交えている[26][27][28]。そのため、晩年の軍事行動が宗教的動機を離れて行われたものか[29]、遠征にキリスト教の保護者を自認してのものか、解釈が分かれる[30]。 フェルナンド1世死後、遺領は分割され、カスティーリャを長男サンチョ2世が、レオンを次男アルフォンソ6世が、ガリシアを三男ガルシア2世が相続した。サンチョはアルフォンソとガリシアを攻めたが、アルフォンソを裏切ってレオンを征服した。しかし、サンチョは1072年に暗殺され、ガルシアはその翌年捕らえられたため、アルフォンソ6世はカスティーリャとガリシアの王位を継ぎ、カスティーリャ=レオン王国を再び統合した。 11世紀にはサンティアゴ・デ・コンポステーラが巡礼地として知られるようになり、フランス人の巡礼者を引き付けるようになった。イベリア半島の住民はほとんど参詣せず、巡礼に参加するのは一部の上層階級の人であった。巡礼の道は「フランス人の道」と呼ばれていた。聖ヤコブはスペイン人にとってそれほど重要な聖人でもなかった。レオン王国は聖イシドロ、カスティーリャでは聖ミリャン
アルフォンソ6世
トレド攻略とフランス修道院クリュニー