アルフォンソの宮廷・教会組織はアーヘンとトレドをモデルに整備された。アルフォンソは終末論を思想的背景としつつ、西ゴート王国との連続性を主張したが、一方で8世紀以来モサラベ教会で主流となっていたキリスト養子説は採用しなかった[12][13]。正確に言えば、モサラベ教会の教義、つまりトレドのエリパンドゥス(英語版)が唱えた説は「キリストは神に人性において『採択された子』」というもので、養子説ではない[14]。
アルフォンソ3世の時代になると、植民活動を活発化させ、教会堂の建設事業を積極的に行うなどキリスト教布教にも力を注いだ[9][15]。アルフォンソ3世の「征服」を強調する見方があるが[16][17]、アルフォンソ3世による発展は全く「平和的」なもので、レコンキスタという言葉が想像させる征服的なものではないという見方もある[18]。アルフォンソ3世は3人の子に王国を分割相続させた。 910年、ガルシア1世は自身が相続した王国の首都を軍事的拠点のレオンへ遷都して、レオン王国(レオン帝国[19])と呼ばれるようになった。 分割相続で成立したレオン・ガリシア・アストゥリアスはそれぞれ別の王を戴きつつ、レオンのガルシア1世がそれらをまとめて緩やかな連合を形成した。 一方同時期のイスパニア辺境は弱小国家の集まりであり、イスラム教国に対抗することなど不可能で、アル・アンダルスとは友好的あるいは従属的な関係を結んでおり、ナバラ王国もイスラム教国に対し友好的・従属的地位にとどまり、アラゴン伯領もレコンキスタ精神からはほど遠い状態にあった[20]。 一方のアル・アンダルスでは、後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン3世やハカム2世の宮廷は北部キリスト教国のみならず遠くビザンツ帝国や神聖ローマ帝国からも使節を迎え[21]、ナバラ王国やレオン王国に遠征してこれを屈伏させた[22]。 11世紀にはいると、サンチョ3世の下でナバラ王国が台頭した。王は巧みな婚姻政策でカスティーリャ伯領・レオン王国などの周辺キリスト教国を併合し、「イスパニア皇帝」を自称した[23]。 サンチョは1034年にレオンを占領すると、「サンチョ皇帝」と刻まれたコインを発行した[24]。 キリスト教諸国 レオン王国|カスティーリャ伯領|ナバーラ王国|アラゴン伯領|カタルーニャ君主国
レオン王国
ナバラ王国による占領
レオン=カスティーリャ王国
フェルナンド1世1031年のイベリア半島
後ウマイヤ朝が滅亡した直後のイベリア半島
イスラム教タイファ諸国 アルコス|アルバラチン