レオポルド2世_(ベルギー王)
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1835年4月9日にベルギー王国の首都ブリュッセルに初代ベルギー王レオポルド1世とその妃ルイーズ=マリー・ドルレアン(フランス王ルイ=フィリップ1世の娘)の間の次男として生まれる[1][2]。兄ルイ=フィリップは前年に夭折していたため、王太子となった[3]

弟にフィリップ王子(フランドル伯)、妹にシャルロット王女(メキシコ皇帝マクシミリアーノ1世皇后)がいる。ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世とザクセン=コーブルク=ゴータ公子フェルディナントは伯父、イギリス女王ヴィクトリアは従姉、イギリス王配アルバートとポルトガル王フェルナンド2世は従兄である。

9歳のときにブラバント公に叙された(以降ベルギーの王位継承者に与えられる爵位となる)[3]

1853年8月にオーストリア大公・ハンガリー副王ヨーゼフ・アントンの娘マリー=アンリエット・ド・アブスブール=ロレーヌと結婚、彼女との間に3人の女子と1人の男子を儲けたが、男子レオポルドは9歳にして夭折している[3]。当時のベルギーは女子の王位継承を認めていなかったので、長男レオポルドの薨去とともに直系の王位継承者を失った。

1855年上院議員となり、政界入りした[3]

ベルギーは1830年にオランダから独立したばかりの新興国であったが、父王レオポルド1世の立憲君主の枠を越えた強力な指導の下に、他の国に先駆けて1836年に鉄道を完成させ、飛躍的な経済発展を遂げていた[4]。それでも国土が狭く人口も少ないベルギーは、ヨーロッパの中では小国にすぎなかったが、レオポルド王太子はいつまでもベルギーをその立場に甘んじさせるつもりはなかった[5]。隣国オランダがコーヒーブームに乗って植民地ジャワから莫大な利益を吸い上げているのを見て、ベルギーにも植民地が不可欠であると確信するようになったという[6]

植民地を物色するために中近東北アフリカセイロン島などを旅行してまわった[7]。帰国後、上院において植民地獲得を熱心に訴えたが、植民地に関心を持つ上院議員はあまりいなかったという。グアテマラ植民地化の失敗以来、ベルギー国民も議会も帝国主義政策を支持していなかったのである[8]

それでも王太子の植民地への熱意は消えず、1860年には「外に向かって膨張すべき時期が来ている。もはや最良の条件 ―我が国より冒険的な国々によってすでに奪われてしまった― を待っているべき時ではない。」と語っている[7]。ベルギーが植民地化できる可能性のある場所を手当たり次第に物色し、1865年には「清か日本への遠征が成功すればベルギーは巨大な帝国となるだろう。人間が同じ人間を搾取することは許されないが、ヨーロッパの出現を東洋が救済と考えないと誰が言えるだろうか」と語り、極東の植民地化にも関心を示している[9][6]。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

幼少期のレオポルド王太子

ベルギー王室一家。左からレオポルド王太子、父王レオポルド1世、妹シャルロッテ王女、母ルイーズ・マリー、弟フィリップ王子

1860年頃に作られた口髭のみで顎鬚を生やしていない頃のレオポルド王太子の胸像

即位中年期のレオポルド2世

父王レオポルド1世が1865年12月10日に崩御したのに伴い、17日にレオポルド2世としてベルギー国王に即位した。以降1909年12月17日の崩御まで在位した[1][10]
内政

1857年より政権を担っている自由主義政党自由党(オランダ語版)は、学校教育の無宗教化を支援するフムベーク法を1879年に可決させた[3][11][12]。野党カトリック党(オランダ語版)はこれに激しく反発し、しまいには教皇領がベルギーとの国交を断絶する騒ぎにまで発展した[11]。レオポルド2世は宗教論争に巻き込まれないようこの問題については超然とした態度をとっていた[11]

フムベーク法をめぐる対立の激化や自由貿易主義に対する農民の反発、軍拡・教育改革に伴う負担増への批判などから、結局1884年の選挙において自由党は大敗し、カトリック党が政権を掌握したため(以降第一次世界大戦の挙国一致内閣まで同党が単独で政権を掌握)、フムベーク法は改正されて宗教教育が復活した[3][13][14]

経済はレオポルド1世の治世から引き続いて飛躍的な成長を続いていた。


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