終戦を迎えると、ゴドフスキーは演奏活動を再開したが、1930年6月17日、ロンドンでのレコーディング中に脳卒中を起こす。それによって彼は公開演奏の経歴にピリオドを打ち、同時に1929年の暗黒の木曜日[2]で彼が負った莫大な経済的損失を回復させる手立てをも失った。1932年の息子の自殺と1933年の妻の死は、悪化するヨーロッパの政治情勢[3]への彼の絶望と相まり、ゴドフスキーは作曲活動をも止めてしまう。悪化する欧州政情は、ゴドフスキーが構想していた「音楽と音楽家の世界会議」(World Synod of Music and Musicians)や「国際的な音楽教師機関」(International Master Institute of Music)を無に帰した。1938年11月21日、胃癌のためニューヨークで死去。
弟子にゲンリフ・ネイガウス、ホルヘ・ボレット、デヴィッド・サパートン等がいる。 ダイナミックレンジは狭かったと伝えられるが、一音も弾き逃さない丁寧な演奏であったことは多くのピアニストによって証言された。もともと演奏家としてあがり性であったことなどから、残されている音源からは彼が当代一流であったかどうかを判断するのは難しい。しかし、ブゾーニのような完璧主義者と異なり比較的多くの音源が残された。「気が乗っていないまま」弾いてしまったショパンのソナタ第二番などは、彼本人も不満であった。ショパンの装飾音も勝手にゴドフスキーの手によって直されるなど、20世紀後半以後のショパン演奏とはかなりかけ離れており、後期ロマン派の脚色が入った表現である。 ゴドフスキーは、他の作曲家のピアノ小品に基づくパラフレーズで最もよく知られている。それらの作品は、精巧な対位法的処理、豊かな半音階的和声により極限まで昇華される。この分野でのゴドフスキーの最も有名な作品は『ショパンの練習曲に基づく53の練習曲』だろう。対声部の導入、技巧的パッセージの右手から左手への転換、左手独奏用編曲、2曲の同時演奏など様々な手法を用いて、ゴドフスキーはショパンの27の練習曲[4]をそれぞれ編曲している[5]。 これは現代の辣腕な技巧家にとっても極めて苛酷な曲集であり、今までに全曲録音を行ったピアニストはジョフリー・ダグラス・マッジ[6]、カルロ・グランテ[7]、マルカンドレ・アムラン[8]、エマヌエーレ・デルッキ オリジナル作品も同様の難しさで、代表作とされる『パッサカリア』、『ジャワ組曲』などの作品も、その超絶技巧故ごく一部のピアニストを除き、ほとんど演奏されることは無かった。僅かに『古きウィーン』[13]などの小品が、ヤッシャ・ハイフェッツによってヴァイオリン用に編曲され、比較的知られ過ぎない状況であった。
演奏スタイル
作曲家としてのゴドフスキー
作品解説