レオナルド・ダ・ヴィンチ
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画家としてのキャリア初期には、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えている。その後はローマ、ボローニャヴェネツィアなどで活動し、晩年はフランス王フランソワ1世に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。

レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声が最も高い[5]。特に、彼の絵画作品中で最も有名で最も多くのパロディ画が制作された肖像画『モナ=リザ』と[9]、もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『最後の晩餐』に知名度の点で比肩しうる絵画作品はほとんどないだろう。また、ドローイングの『ウィトルウィウス的人体図』も文化的アイコンと見なされており[10]、イタリアの1ユーロ硬貨、教科書Tシャツなど様々な製品に用いられている。現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と言われており決して多くはない。これはレオナルドが完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる[注釈 1]。それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したドローイング科学に関するイラストが描かれた手稿、絵画に対する信念などは近代以降の芸術家へ多大な影響を与えた。

レオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている[5]ヘリコプター戦車の概念化、太陽エネルギー計算機の理論[11]、二重船殻構造の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが[注釈 2]、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした[注釈 3]。また、解剖学土木工学光学流体力学の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった[12]。しかしこれはレオナルドが書き残した膨大な手記が、遺産相続した人々が著名人の手記として価値あるものとして手元に保管したので、長らく世間に公開されなかったのが原因であると現在では解されている。また、後世の科学技術の発展にまったく影響を与えなかったのかという点については、必ずしもそうとは言い切れず、多少の貢献を行った[13]
生涯
幼少期、1452年から1466年レオナルドが幼少期を過ごした家(ヴィンチ村)

レオナルドは1452年4月15日(ユリウス暦)の「日没3時間後」[注釈 4]に、トスカーナのヴィンチに生まれた。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた[15]。父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母のカテリーナはおそらく農夫の娘とされる[14][16][注釈 5]

レオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチ(出身)の」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ(出身)のセル(父親メッセルの略称)の(息子の)レオナルド」という意味となる[15]。セル(メッセル (Messer)) は敬称であり、レオナルドの父親が公証人に就いていたことを示している。

レオナルド自身は長じて後も子供をもうけなかったとみられるが、父親の血筋を引く子孫の調査が1970年代から進められてきた。その結果、22人の異母きょうだいがいたことと、その父親の直系子孫14人がイタリアにいることがレオナルド・ダ・ヴィンチ理想博物館(ヴィンチ村)の研究により判明した[18]現在知られている、レオナルドが描いた最初期のドローイング、ウフィツィ美術館フィレンツェ)。


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