南カリフォルニア大学の夜間部に通い映画技術を学んだ後、ジョージ・パルのスタジオで「パペトーン」のアニメーション・スタッフとなる。第二次世界大戦中にはフランク・キャプラの下でアメリカ陸軍の映画撮影班に属し、映画技術の基礎を習得した。ストップモーション・アニメーションの技術を用いた「戦場での架橋工程を示した軍用教育映画」など当時の作品が残っている。この間、ディミトリ・ティオムキンとドクター・スースとも仕事をしている[4]。
戦後、ハリーハウゼンは捨てられていた16mmフィルムを拾い、短編のおとぎ話を製作している。また、『宇宙戦争』を題材に、火星人が地球に降り立つシーンを独自に撮影している。1949年にアシスタント・アニメーターとして雇われ、『猿人ジョー・ヤング』の製作に参加し、オブライエンからアニメーション製作の大部分を任された。
1960年にロンドンに移住し、晩年まで同地で過ごした。1962年10月にダイアナ・リビングストン・ブルースと結婚し、娘ヴァネッサをもうける。1992年に永年の功績によりアカデミー賞特別賞を受賞した。授賞式では、高校時代からの盟友であるレイ・ブラッドベリの手からオスカー像が手渡された。 1994年の映画『ビバリーヒルズ・コップ3』ではカメオ出演し、1998年には『猿人ジョー・ヤング』のリメイク作品『マイティ・ジョー』に、『猿人ジョー・ヤング』で主演を務めたテリー・ムーア
晩年
2013年5月7日、5か月間の闘病の末に92歳で死去したことが、家族によってTwitterとFacebookで公表された[5][6]。デイリー・ミラーはハリーハウゼンのウェブサイトを引用して、「ハリーハウゼンはスティーヴン・スピルバーグ、ジェームズ・キャメロン、ピーター・ジャクソン、ジョージ・ルーカス、ジョン・ランディス、ニック・パークなど多くの映画製作者に多大な影響を与えた」とコメントを発表した[7]。
業績
ダイナメーション『恐竜100万年』のアロサウルスと『アルゴ探検隊の大冒険』のタロス(国立科学・メディア博物館(英語版))
内部にアーマチュア(可動式骨格)を仕込んだ人形を1コマずつ撮影するモデルアニメーションの分野で評価されており、リアルな動きで作り出された映像は世界の人々を驚嘆させた。特に評価が高いのは、「ダイナメーション」と呼ばれる手法で、これは俳優の演技をスクリーン・プロセスでコマ送りで投影しながらそれに合わせて人形を動かすものである[8]。従来、俳優と人形のカラーでの合成には、人形の撮影時にライトの熱で色温度が変化してしまい、実際に映写した際に俳優に対して人形の色が目まぐるしく変わってしまうという難点があったが、ハリーハウゼンは人形の撮影の際、コマ毎に色温度を修正するフィルタを入れる技術を生み出し、この問題を解決した。これにより人形と人間の同時演技(例えばミニチュアと人間の格闘シーン)が光学合成なしで可能となり、後のハリウッド映画の特撮人気を爆発させた[9]。
ハリーハウゼンは映画の脚本、デザイン、コンセプトなど多くの部分に参加しており、プロデューサーはハリーハウゼンのやり方に常に同意することを求められていた。しかし、ハリウッドの製作組合の規則の問題から監督になることはできず、ほとんどの映画では別の役職でクレジットされていた。彼の作品には両親も参加しており、父フレデリックは息子のデザインに基づき金属加工を行い、母マーサはミニチュアの衣装を担当していたが、1973年にフレデリックが死去した後は、他の職人に金属加工を依頼するようになった。
製作
コロンビア映画作品.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}『原子怪獣現わる』のリドザウルス『地球へ2千万マイル』のイーマ
本格的なデビュー作となったのは、ブラッドベリの短編『霧笛』を原作として1953年に製作された『原子怪獣現わる』であり、特撮部分の製作を全面的に担当した。元々は「Monster From the Sea」というオリジナル作品として製作が進められていたが、ハリーハウゼンが描いた「海から現れた怪獣が灯台によじ登る」というシーンが『霧笛』にも描かれていることを知った製作側が、法的問題を避けるために同作の映画化の権利を買い取って製作が続けられた。水爆実験でよみがえった怪獣がニューヨークを破壊するというこの作品は、日本の特撮映画『ゴジラ』にも大きな影響を与えた。
1955年の『水爆と深海の怪物』は、ゴールデン・ゲート・ブリッジを巨大な蛸が破壊するというストーリーであったが、予算不足から巨大蛸の触腕は6本となっている。本作では「橋の強度に対して不安感を与える」との理由からロサンゼルス市当局の撮影許可が下りず、ゲリラ的な撮影が敢行された。この作品以降、コロンビア ピクチャーズのチャールズ・H・シニア(英語版)と盟友関係を結ぶことになった[10]。
1956年の『世紀の謎 空飛ぶ円盤地球を襲撃す』では、UFOの特撮に挑戦している。この映画では崩れ落ちるビルの瓦礫までもモデルアニメで処理されたが、実は予算の関係でミニチュア爆破のような大規模な特撮が出来なかったため、この方式がとられている。ティム・バートンの『マーズ・アタック!』に登場するUFOはこの作品のパロディである。
1957年の『地球へ2千万マイル』では、初めてヨーロッパロケを行っている。この作品では古代ローマの遺跡コロッセオで金星の生物「イーマ(Ymir)」が暴れまわる。人間によって地球に連れて来られ、モンスターとして人間によって殺されてしまうイミーアは『キング・コング』へのオマージュでもある。
1958年の『シンバッド七回目の航海』(公開当時の題名は「シンバッド7回目の航海」)は、ハリーハウゼンの初のカラー作品となった。ハリーハウゼンはカラー映画への転換をシニアに求められ、ダイナメーションをカラーでも通用するように技術開発を行い、製作に挑んでいる。1つ目巨人のサイクロプスや、双頭の巨大鷲のロック鳥、ドラゴンなど様々な怪物が登場する。中でも骸骨戦士との剣戟シーンは有名である。この後、ハリーハウゼンはコロンビア映画との間に、4本のカラー映画の製作契約を結んでいる。
1963年の『アルゴ探検隊の大冒険』では、7体の骸骨戦士との集団剣戟や、空を飛び回る怪鳥ハーピー、重厚な動きを見せる青銅の巨人タロスなど、さらに磨きのかかった特撮技術が見られる。特に、7首の竜ヒドラの登場シーンでは、「それぞれの首が自然で滑らかな動作をしているように見せるため大変な苦労をした」とハリーハウゼンは語っている。