レイ・チャールズ
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ABCは当時としてはとても価値ある有益な契約となる年間前払金5万ドル(US$522,603 in 2023 dollars[26])、これまで以上の印税収入、マスタリング所有権を提示し、チャールズは当時の他のアーティストたちより寛大な契約を獲得した[46]。アトランティック在籍中、チャールズはその独創的な作曲で称賛されていたが、ABCの子会社レーベルであるインパルス!レコードによる、主にインストゥルメンタルのジャズによるアルバム『Genius + Soul = Jazz』(1960年)のリリースの頃までには作曲することを諦め、既存の曲に自身の多様な編曲を加えるカバー・アーティストとなっていた[44]

1960年に代表曲の一つとなる「我が心のジョージア」を発表し、ミリオンセラーを記録した。ABCパラマウントでの初のヒット・シングルとなり、全米の称賛を受けて男性ポップヴォーカル賞およびコンテンポラリー楽曲賞を含む4部門で受賞した。スチュアート・ゴレルおよびホーギー・カーマイケルの作曲で、シド・フェラ―がプロデュース、編曲、レコーディングでの指揮を務めた[44][47]。この演奏によりアメリカの古い楽曲の価値が上がり、1979年にはチャールズ版「我が心のジョージア」がジョージア州歌となるに至った[48][49]1971年

R&B歌手のパーシー・メイフィールドが作曲した「旅立てジャック」(1961年)でもグラミー賞を受賞した。

1961年終盤までにチャールズは小規模のツアーメンバーからビッグバンドに拡大させ、印税やツアー費用の増加もあり、制作段階でメインストリーム・ポップに進出した数少ない黒人アーティストの1人となった[44][50]。しかし1961年11月のコンサートツアー中、インディアナ州インディアナポリスにて警察がチャールズのホテルの部屋を捜索して薬棚からヘロインが発見され、これまでの成功が一気に崩壊した。ただし警察による正式な令状のない捜査であったため事件は取り下げられ、チャールズはすぐに音楽界に戻った[50]

1960年代初頭、ルイジアナ州からオクラホマ州オクラホマシティへ向かう航空機に搭乗中、降雪と霜取り機の使用の失敗によりフロントガラスが完全に氷で覆われパイロットの視界が悪くなり、墜落寸前となった。空中で2回旋回し、フロントガラスのごく僅かな部分から見ながら着陸することができた。チャールズはこの経験をスピリチュアルに解釈し、「計り知れない誰かあるいは何か」がフロントガラスの氷に小さな隙間を作り、最終的に飛行機が安全に着陸することができたのだと語った[14]

1962年のアルバム『Modern Sounds in Country and Western Music』および続編の『Modern Sounds in Country and Western Music, Vol. 2』はカントリー・ミュージックをメジャー路線にすることに貢献した[51]。ドン・ギブソンが作曲した「愛さずにはいられない(英語版)」(1962年)のチャールズ版がポップ・チャートに5週連続第1位、R&Bチャートに10週連続第1位を獲得し、チャールズにとってイギリスで唯一の第1位の楽曲となった。1962年、ABCパラマウントが広報と配給を行なう自身のレコード会社タンジェリン・レコードを創立した[14]:248 [31]:213?16。1963年、「"Busted"」が全米4位、「"en:Take These Chains from My Heart」が全米8位とポップチャートでヒットした[52]。1964年、マージー・ヘンドリクスを激しい口論の上でレイレッツから解雇した[53]。他に「ワン・ミント・ジュレップ」 (1961年)、「アンチェイン・マイ・ハート 」(1962年)、「太陽は燃えている」(1964年)などのヒットを出し続けた。

1964年、ヘロイン所持で3度目の逮捕となり、チャールズのキャリアは再び中断した。収監を避けるためにリハビリ施設への入所に同意し、ついにロサンゼルスの診療所で悪癖を払拭した。1年間の執行猶予の後、1966年、チャールズはダンス曲「"I Don't Need No Doctor"」、「 "Let's Go Get Stoned」などアシュフォード&シンプソンとジョー・アームステッドの作曲による一連のヒット曲でチャートに再び登場するようになり、数年ぶりにR&Bチャートで第1位を獲得した[54]。カントリー歌手のバック・オーウェンスの楽曲をカバーした「"Crying Time"」がポップチャートで第6位となり、翌年3月のグラミー賞を受賞した。

1967年、バラード曲「"Here We Go Again」がトップ20にランクインした[55]
1971年?1983年: 商業的下落1972年、リチャード・ニクソン大統領との面会(オリヴァー・F・アトキンス撮影)

チャールズのチャート復帰は短期間で終わり、1970年代までにはラジオ局であまり流されなくなった。サイケデリック・ロック、そしてロックやR&Bのハード版の台頭により、ラジオでの求心力を下降させ、マスタリング所有権による印税収入があるため新曲作曲の意欲を失い、ポップスの定番曲の他にコンテンポラリー・ロックやソウルのヒット曲をレコーディングするようになった。それでもレコーディング活動を続けていた。1968年から1973年のレコーディングの多くはファンや批評家から賛否両論の強い反応を引き起こした[25]。この時期のレコーディング、特に1972年のアルバム『A Message from the People』は当時人気だったプログレッシブ・ソウルへと傾倒していった[56]。ゴスペルの要素を含む独自の「アメリカ・ザ・ビューティフル」、そして貧困や人権に抗議する楽曲が複数収録されている。ただし「アメリカ・ザ・ビューティフル」は原曲と大幅に異なるとしてしばしば批判されている。1973年7月14日、チャールズとの子を出産したマージー・ヘンドリクスが38歳で亡くなり、遺児のチャールズ・ウエイン・ヘンドリクスの世話をするようになった。死因は不明である。

1974年、ABCレコードを離れ、自身のレーベルであるクロスオーバー・レコードで複数のアルバムをレコーディングした。1975年、スティーヴィー・ワンダーのヒット曲「汚れた街」のチャールズ版で再びグラミー賞を受賞した。1977年、アーメットと再会し、アトランティック・レコードと再び契約してアルバム『True to Life』をレコーディングし、1980年まで所属し続けた。しかしアトランティックはロックに焦点を当て始め、アレサ・フランクリンなどの著名なソウル・アーティストは活躍の場がなくなり始めた。1977年11月、チャールズはNBCのテレビ番組『サタデー・ナイト・ライブ』にゲスト司会者として出演した[57]

1979年4月24日、ジョージア州議会は「Georgia On My Mind (わが心のジョージア)」を「正式な州歌」と定めた。チャールズはジョージア州会議事堂で感動的な演奏を行なった。1980年には映画『ブルース・ブラザース』(1980年)に楽器店店主の役で出演し、「Shake Your Tailfeather」を演奏している[25]。1960年代、アフリカ系アメリカ人公民権運動およびマーティン・ルーサー・キング・ジュニアを支援していたことで知られ、1981年、南アフリカ共和国アパルトヘイトに抗議する国際的なボイコットの間、リゾート地のサンシティでコンサートを開催したことに批判が起こった。のちにこのコンサートの間は黒人と白人が平等となるとして決行することにしたと主張した[25]
1983年?2004年: 後年

1983年、コロムビア・レコードと契約した。一連のカントリー・アルバムをレコーディングし、ジョージ・ジョーンズチェット・アトキンスB・J・トーマス、ミッキー・ガイリー(英語版)、ハンク・ウィリアムズ・ジュニア(英語版)、ディー・ディー・ブリッジウォーター("Precious Thing")そして長年の友人であるウィリー・ネルソン("Seven Spanish Angels")などの歌手と共にデュエットしたシングルがヒットした。USAフォー・アフリカにてウィ・アー・ザ・ワールドを歌う

1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、チャリティ・シングルの「ウィ・アー・ザ・ワールド」のブリッジ部分でリードボーカルをとった。


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