1945年、14歳の時に母親が亡くなった。チャールズは非常にショックを受け、のちに弟と母親の死は「人生最大の悲劇」と語った。葬式後、学校に戻らないことを決意した[14]。 退学後、チャールズは母親の友人のチャールズ・ウェイン・パウエルと同居するためにフロリダ州ジャクソンビルに転居した。1年以上ラヴィラ地区にあるリッツ・シアターにて複数のバンドでピアノを弾き、一晩で4ドル(US$46, in 2023 value[26])を稼いでいた[27]。職を得るためにアメリカ音楽家連盟632区に加盟し[28]、家にピアノを持っておらず連盟施設のホールのピアノを練習のために使用することができ、他の奏者のフレーズを復唱した[29]。ジャクソンビルでその音楽的才能が評判となったが定職に就けなかった。16歳でフロリダ州オーランドに転居したが極貧により数日食にありつけないこともあった[30]。第二次世界大戦が終わり、いずれの音楽家も職を見つけるのが困難となった。ようやくポップ・ミュージックのバンドの編曲を開始した。1947年夏、ラッキー・ミリンダーおよびその16人編成バンドのピアノのオーディションに落ちた[31]。 1947年、フロリダ州タンパに転居し、チャールズ・ブラントリー・ハニー・ディッパーズのピアノ演奏を含む2つの職を掛け持った[32]。 キャリア初期の頃、チャールズはナット・キング・コールを手本としていた。最初のレコーディングとなる「Wondering and Wondering」、「Walking and Talking」、「Why Did You Go?」、「I Found My Baby There」の4曲はタンパでレコーディングしたとされるが、いくつかのディスコグラフィでは1951年にマイアミまたは1952年にロサンゼルスでレコーディングしたとされる[31]。 他の人物のバンドでピアノ演奏していたが、自身のバンドを持ちたいと熱望していた。フロリダ州を離れてどこか大都市に転居しようと決心したが、シカゴやニューヨークは大きすぎると考えた。ラジオの大ヒット曲は北部の都市で生まれるとして、1948年3月、友人のゴシー・マッキーについてワシントン州シアトルに移った[31][33]。1948年にはロバート・ブラックウェルの指導を受ける当時15歳だったクインシー・ジョーンズと出会い、友人となっている[34][35]。 チャールズのピアノ、マッキーのギター、ミルトン・ギャレットのベースのトリオ編成のバンドに参加して、マッキー(McKee)とロビンソン(Robinson)から名付けたマクソン・トリオとしてロッキング・チェアにて午前1時から5時のシフトで演奏していた[36]。トリオの宣材写真がチャールズの最古の写真とされる。この頃から薬物使用の悪癖も始まってしまう。1949年4月、トリオは「コンフェッション・ブルース
経歴
1945年?1952年: フロリダ、ロサンゼルス、シアトル
1950年、マイアミのホテルでの演奏を聴いたレコード・プロデューサーのヘンリー・ストーンが感銘を受け、Ray Charles Rockin'をレコーディングしたがヒットしなかった。マイアミ滞在中チャールズは差別を受けていたが、オーバータウンの黒人コミュニティで人気となった。その後ストーンはジェリー・ウェクスラーがフロリダ州セントピーターズバーグでチャールズを見つける手助けをした[37]。
スウィング・タイム・レコードで歌った後、チャールズはレイ・チャールズの名でR&Bの2曲をレコーディングし、「"Baby, Let Me Hold Your Hand"」(1951年)は第5位、「"Kissa Me Baby"」(1952年)は第8位とヒットした。初期の頃はレイ・ロビンソンの名で活動し、後に同名のボクサーがいるため、ミドルネームのレイ・チャールズに改名した。翌年、スウィング・タイムは破産し、自己バンドでツアーを行っているうちに、アトランティック・レコードのアーメット・アーティガンから声を掛けられ契約した[25]。
演奏家としてだけでなく、レコード・プロデューサーとしてギター・スリムの「"The Things That I Used to Do"」のプロデュースを行ない第1位のヒットとなった。
1952年?1959年: アトランティック・レコードレイ 1968
1952年6月、アトランティック・レコードと2,500ドル(US$28,684 in 2023 dollars[26])で契約した[38][39]。1952年9月、アトランティックでの最初のレコーディング・セッションは「"The Midnight Hour"/"Roll with My Baby"」であったが、1953年2月にスウィング・タイムから最後のレコード「"Misery in My Heart"/"The Snow Is Falling"」がリリースされた。
1953年、「"Mess Around"」がアトランティックでの最初のまずまずのヒットとなり、翌年、「"It Should've Been Me」と「Don't You Know」がヒットした[39]。この頃「"Midnight Hour"」および 「"Sinner's Prayer"」もレコーディングしていた。
1964年終盤、「"I've Got a Woman」をレコーディングした。バンドリーダーのレナルド・リチャードが作詞し、チャールズが作曲したとされた。のちに彼らはサザン・トーンズの「It Must Be Jesus」(1954年)がベースとなっていることを認めた。最も著名なヒット曲の1つとなり、R&Bチャートで第2位となった[39]。この曲はゴスペル、ジャズ、ブルースの要素が融合された。1955年、「"This Little Girl of Mine"」、「"A Fool for You"」がヒットした。その後「"Drown in My Own Tears"」、「"Hallelujah I Love Her So"」がヒットした。
アルバム『The Great Ray Charles』(1957年)などジャズもレコーディングしている。ビブラフォン奏者のミルト・ジャクソンと共に『Soul Brothers』(1958年)、『Soul Meeting』(1961年)のアルバムをリリースした。ニューヨークのアポロ・シアターなどの黒人施設だけでなく、カーネギー・ホールやニューポート・ジャズ・フェスティバルなどの大規模な施設でもメイン出演者として演奏しており、1958年に初のライヴ・アルバム『Ray Charles at Newport』がレコーディングされた。女性ヴォーカル・グループのクッキーズを雇い、レイレッツと改名させた。1958年8月3日、チャールズとレイレッツはレオン・ヘフィン・シニアのプロデュースによりシュライン・オーディトリアムで開催されたカヴァルケイド・オブ・ジャズで演奏した。他にリトル・ウィリー・ジョン、サム・クック、アーニー・フリーマン(英語版)、ボ・ランボ(英語版)が出演していた。サミー・デイヴィスJr.もミス・カヴァルケイド・オブ・ジャズ優勝者に授賞するため出席していた。ロサンゼルスの最も著名なディスクジョッキー4名も出演していた[40][41]。
1959年のゴスペル、ジャズ、ブルース、ラテンを融合した「ホワッド・アイ・セイ」をリリースしてアトランティックの頂点となった。