レイ・チャールズ
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1950年代、ブルースジャズリズム・アンド・ブルースゴスペルを融合して「ソウルミュージック」を創った第一人者として、アトランティック・レコードでレコーディングを行なった[7][6][8][9]。1960年代、ABCレコードにて『Modern Sounds in Country and Western Music』、『Modern Sounds in Country and Western Music Volume Two』の2枚のModern Soundsアルバムをリリースしてジャンルを越えた成功を収め、カントリー・ミュージック、リズム・アンド・ブルース、ポップ・ミュージックの融合にも貢献した[10][11]。ABC在籍中、チャールズは主要レコード会社により芸術的決定権が与えられた最初の黒人音楽家の1人となった[8]

1960年、ヒット曲「我が心のジョージア」は「ビルボード」誌のシングルチャートで第1位を獲得した3曲のうちの1曲目となった。1962年のアルバム『Modern Sounds in Country and Western Music』は「ビルボード」誌のアルバムチャートで第1位を獲得した最初のアルバムとなった[12]。「ビルボード」誌において、アメリカR&Bシングルチャートに44枚、ホット100シングルチャートに11枚、ホットカントリーシングルチャートに2枚と各種チャートの40位以内に複数のシングルがチャートインした[13]

チャールズはナット・キング・コールから大きな影響を受けたと語っているが、チャールズの音楽はルイ・ジョーダンチャールズ・ブラウンの影響を受けている[14]。生涯を通じてクインシー・ジョーンズと友人であり、共に演奏することもあった。フランク・シナトラは「ショービジネス界で唯一の真の天才」と呼んだが、チャールズはこの発言を重要視しなかった[15]ビリー・ジョエルは「言葉が悪いかもしれないが、私はレイ・チャールズはエルヴィス・プレスリーより重要だったと考えている」と語った[16]

音楽への貢献によりケネディ・センター名誉賞国民芸術勲章、ポーラー音楽賞(英語版)を受賞した。1986年、ロックの殿堂に初めて殿堂入りした人物の1人となった。グラミー賞に18回(没後5回)受賞し[12]、1987年、グラミー賞特別功労賞を受賞し、グラミーの殿堂に10枚のシングルおよびアルバムが殿堂入りした[12]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第2位[17][18]、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第10位[19][4]、「Q誌の選ぶ歴代の偉大な100人のシンガー」において第24位[20]にランクインした。2022年、カントリー・ミュージックの殿堂、ブラック・ミュージック・エンターテイメントの殿堂に殿堂入りした[21]
生い立ちおよび教育

1930年9月23日、ジョージア州オールバニにて、肉体労働者の父ベイリー・ロビンソン、フロリダ州グリーンビル出身の洗濯作業員の母アレサ(リーサ)・ロビンソン(旧姓ウィリアムズ)のもとに生まれた[22][note 1]

アレサの子供の頃に母親が亡くなり、父親も育てられなかった。父親の同僚のベイリーが妻メリー・ジェーンと共にアレサを非公式ながら養女に迎え、アレサは姓をロビンソンに変えた。数年後、15歳となったアレサはベイリーの子を妊娠した。地元のスキャンダルとなり、1930年晩夏、グリーンビルを離れて親族のいるオールバニに転居した。息子となるレイ・チャールズを出産後、アレサと幼いチャールズはグリーンビルに戻った。アレサは、息子を亡くしたメリー・ジェーンと共にチャールズを育てた。ベイリーは家族を見捨ててグリーンビルを離れ、他の女性と再婚した。チャールズが1歳となるまでに父親不明の弟ジョージが誕生した[14]

チャールズは母に深く傾倒し、のちに母は体が弱く不運続きにもかかわらず、忍耐強く、自立し、誇り高く、チャールズの人生の指針となったと語った。

幼い頃、チャールズは機械に興味を示し、しばしば近隣住民の車や農業機械の修理を見ていた。3歳の頃、ワイリー・ピットマンズ・レッド・ウィング・カフェでピットマンが古いアップライト・ピアノでブギウギを演奏するのを聴き、音楽への興味が発揮された。ピットマンはチャールズにピアノの演奏方法を教えた。いつもこのカフェはチャールズと母親を歓迎し、経済的に困窮した時はここに住むこともあった[14]。ピットマンは母親の負担軽減のために弟のジョージの世話をすることもあった。6歳の頃、仲が良かった4歳の弟のジョージ・ロビンソンが誤って母親の洗濯桶で溺れて亡くなった[14][23]

チャールズは4歳から5歳で視力が悪化し始め[5][24]、ジョージの死から9か月後の7歳でおそらく緑内障のために失明した[25]。ジョージの死を悼む極貧で無学な母アレサは地元のつてを頼ってアフリカ系アメリカ人の盲目の子供を受け入れる学校を探した。1937年から1945年、チャールズは当初嫌々ながらもフロリダ州セントオーガスチンにあるフロリダ盲聾学校に通学した[14]

目が見えないというハンディを背負いながら盲学校に通いつつ、バッハ、モーツァルト、ベートーベンなどのクラシックピアノを学び、音楽の才能をさらに伸ばした[25]。ローレンス先生は右手で点字を読んで左手で動きを覚え、左手で点字を読んで右手で動きを覚えるという難しいプロセスである点字楽譜の使用方法を教えた。

1945年、14歳の時に母親が亡くなった。チャールズは非常にショックを受け、のちに弟と母親の死は「人生最大の悲劇」と語った。葬式後、学校に戻らないことを決意した[14]
経歴
1945年?1952年: フロリダ、ロサンゼルス、シアトル

退学後、チャールズは母親の友人のチャールズ・ウェイン・パウエルと同居するためにフロリダ州ジャクソンビルに転居した。1年以上ラヴィラ地区にあるリッツ・シアターにて複数のバンドでピアノを弾き、一晩で4ドル(US$46, in 2023 value[26])を稼いでいた[27]。職を得るためにアメリカ音楽家連盟632区に加盟し[28]、家にピアノを持っておらず連盟施設のホールのピアノを練習のために使用することができ、他の奏者のフレーズを復唱した[29]


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