レイ・チャールズ
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ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第2位[17][18]、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第10位[19][4]、「Q誌の選ぶ歴代の偉大な100人のシンガー」において第24位[20]にランクインした。2022年、カントリー・ミュージックの殿堂、ブラック・ミュージック・エンターテイメントの殿堂に殿堂入りした[21]
生い立ちおよび教育

1930年9月23日、ジョージア州オールバニにて、肉体労働者の父ベイリー・ロビンソン、フロリダ州グリーンビル出身の洗濯作業員の母アレサ(リーサ)・ロビンソン(旧姓ウィリアムズ)のもとに生まれた[22][note 1]

アレサの子供の頃に母親が亡くなり、父親も育てられなかった。父親の同僚のベイリーが妻メリー・ジェーンと共にアレサを非公式ながら養女に迎え、アレサは姓をロビンソンに変えた。数年後、15歳となったアレサはベイリーの子を妊娠した。地元のスキャンダルとなり、1930年晩夏、グリーンビルを離れて親族のいるオールバニに転居した。息子となるレイ・チャールズを出産後、アレサと幼いチャールズはグリーンビルに戻った。アレサは、息子を亡くしたメリー・ジェーンと共にチャールズを育てた。ベイリーは家族を見捨ててグリーンビルを離れ、他の女性と再婚した。チャールズが1歳となるまでに父親不明の弟ジョージが誕生した[14]

チャールズは母に深く傾倒し、のちに母は体が弱く不運続きにもかかわらず、忍耐強く、自立し、誇り高く、チャールズの人生の指針となったと語った。

幼い頃、チャールズは機械に興味を示し、しばしば近隣住民の車や農業機械の修理を見ていた。3歳の頃、ワイリー・ピットマンズ・レッド・ウィング・カフェでピットマンが古いアップライト・ピアノでブギウギを演奏するのを聴き、音楽への興味が発揮された。ピットマンはチャールズにピアノの演奏方法を教えた。いつもこのカフェはチャールズと母親を歓迎し、経済的に困窮した時はここに住むこともあった[14]。ピットマンは母親の負担軽減のために弟のジョージの世話をすることもあった。6歳の頃、仲が良かった4歳の弟のジョージ・ロビンソンが誤って母親の洗濯桶で溺れて亡くなった[14][23]

チャールズは4歳から5歳で視力が悪化し始め[5][24]、ジョージの死から9か月後の7歳でおそらく緑内障のために失明した[25]。ジョージの死を悼む極貧で無学な母アレサは地元のつてを頼ってアフリカ系アメリカ人の盲目の子供を受け入れる学校を探した。1937年から1945年、チャールズは当初嫌々ながらもフロリダ州セントオーガスチンにあるフロリダ盲聾学校に通学した[14]

目が見えないというハンディを背負いながら盲学校に通いつつ、バッハ、モーツァルト、ベートーベンなどのクラシックピアノを学び、音楽の才能をさらに伸ばした[25]。ローレンス先生は右手で点字を読んで左手で動きを覚え、左手で点字を読んで右手で動きを覚えるという難しいプロセスである点字楽譜の使用方法を教えた。

1945年、14歳の時に母親が亡くなった。チャールズは非常にショックを受け、のちに弟と母親の死は「人生最大の悲劇」と語った。葬式後、学校に戻らないことを決意した[14]
経歴
1945年?1952年: フロリダ、ロサンゼルス、シアトル

退学後、チャールズは母親の友人のチャールズ・ウェイン・パウエルと同居するためにフロリダ州ジャクソンビルに転居した。1年以上ラヴィラ地区にあるリッツ・シアターにて複数のバンドでピアノを弾き、一晩で4ドル(US$46, in 2023 value[26])を稼いでいた[27]。職を得るためにアメリカ音楽家連盟632区に加盟し[28]、家にピアノを持っておらず連盟施設のホールのピアノを練習のために使用することができ、他の奏者のフレーズを復唱した[29]。ジャクソンビルでその音楽的才能が評判となったが定職に就けなかった。16歳でフロリダ州オーランドに転居したが極貧により数日食にありつけないこともあった[30]第二次世界大戦が終わり、いずれの音楽家も職を見つけるのが困難となった。ようやくポップ・ミュージックのバンドの編曲を開始した。1947年夏、ラッキー・ミリンダーおよびその16人編成バンドのピアノのオーディションに落ちた[31]

1947年、フロリダ州タンパに転居し、チャールズ・ブラントリー・ハニー・ディッパーズのピアノ演奏を含む2つの職を掛け持った[32]

キャリア初期の頃、チャールズはナット・キング・コールを手本としていた。最初のレコーディングとなる「Wondering and Wondering」、「Walking and Talking」、「Why Did You Go?」、「I Found My Baby There」の4曲はタンパでレコーディングしたとされるが、いくつかのディスコグラフィでは1951年にマイアミまたは1952年にロサンゼルスでレコーディングしたとされる[31]

他の人物のバンドでピアノ演奏していたが、自身のバンドを持ちたいと熱望していた。フロリダ州を離れてどこか大都市に転居しようと決心したが、シカゴやニューヨークは大きすぎると考えた。ラジオの大ヒット曲は北部の都市で生まれるとして、1948年3月、友人のゴシー・マッキーについてワシントン州シアトルに移った[31][33]。1948年にはロバート・ブラックウェルの指導を受ける当時15歳だったクインシー・ジョーンズと出会い、友人となっている[34][35]

チャールズのピアノ、マッキーのギター、ミルトン・ギャレットのベースのトリオ編成のバンドに参加して、マッキー(McKee)とロビンソン(Robinson)から名付けたマクソン・トリオとしてロッキング・チェアにて午前1時から5時のシフトで演奏していた[36]。トリオの宣材写真がチャールズの最古の写真とされる。この頃から薬物使用の悪癖も始まってしまう。1949年4月、トリオは「コンフェッション・ブルース(英語版)」をレコーディングし、チャールズにとって最初の全国ヒット曲となり、早くも「ビルボード」誌のR&Bチャートで第2位まで上昇するヒットとなった[31]。ロッキング・チェアで活動中、コール・ポーターの「"Ghost of a Chance"」、ディジー・ガレスピーの「Emanon」など他のアーティストの編曲も行なっていた[30]。最初の2曲がヒットし、1950年にロサンゼルスに転居し、その後数年間ブルースのロウエル・ファルソンのツアーに音楽監督として同行した[5]

1950年、マイアミのホテルでの演奏を聴いたレコード・プロデューサーのヘンリー・ストーンが感銘を受け、Ray Charles Rockin'をレコーディングしたがヒットしなかった。マイアミ滞在中チャールズは差別を受けていたが、オーバータウンの黒人コミュニティで人気となった。その後ストーンはジェリー・ウェクスラーがフロリダ州セントピーターズバーグでチャールズを見つける手助けをした[37]

スウィング・タイム・レコードで歌った後、チャールズはレイ・チャールズの名でR&Bの2曲をレコーディングし、「"Baby, Let Me Hold Your Hand"」(1951年)は第5位、「"Kissa Me Baby"」(1952年)は第8位とヒットした。初期の頃はレイ・ロビンソンの名で活動し、後に同名のボクサーがいるため、ミドルネームのレイ・チャールズに改名した。翌年、スウィング・タイムは破産し、自己バンドでツアーを行っているうちに、アトランティック・レコードアーメット・アーティガンから声を掛けられ契約した[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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