1919年にカリフォルニアに到着。あんず農園で働いたり、スポーツ用品の会社で働いたりした。独学で簿記を学んだ。彼は3年の簿記のコースを6週間で済ませた。
休戦が成立するとカナダ経由でロサンゼルスに戻り、間もなく一緒に入隊したゴードン・パスカルの継母で18歳年上のシシイと恋愛関係となった[4]。シシイは1920年に離婚したが、チャンドラーの母はその関係に反対し、結婚を認めなかった。4年間そのような状態が続いたが、1923年9月26日に母が亡くなり、1924年2月6日にはシシイと結婚[4][10]。妻はニューヨークの生まれで、クラレンス・デイの母が出た一家と親類関係にあった。
1922年から Dabney Oil Syndicate という石油会社で簿記係兼監査役として雇われ、1931年には副社長にまで登りつめたが、飲酒が過ぎること、常習的な欠勤、女性従業員との不倫[4]などが原因で翌年には解雇された。最終的には6つの石油会社の役員になった。 大恐慌で経済的に苦しかったため、チャンドラーは文筆の潜在的才能で生計を立てようと決め、E・S・ガードナーのペリー・メイスンものからパルプ・マガジンの小説の書き方を独学で学んだ。1933年にハードボイルド探偵小説の揺籃であったアメリカのパルプ・マガジン『ブラック・マスク』に18000語の中篇『脅迫者は撃たない
作家生活
1939年発表の処女長編『大いなる眠り』で初登場したフィリップ・マーロウは、ハードボイルド派の中で最も有名な探偵といえる。『大いなる眠り』の執筆には3か月かけた。
1950年、イギリスでの版元ハミッシュ・ハミルトンへの手紙で、なぜパルプ・マガジンを読むようになり、さらに書くようになったかを説明している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}パシフィック・コーストを自動車で行き来していたとき、安くて捨てても惜しくないパルプ・マガジンを読むようになった。女性向け雑誌を読む趣味は全くないのでね。(私がそう言ってよければ)それはブラック・マスク誌の黄金時代で、粗野な面もあるものの、その書きっぷりはかなり力強く正直だと気付いた。そして、小説の書き方を学んで同時に小遣いを稼ぐというのはよい方法かもしれないと思いついた。5カ月かけて18,000語の中編を書き上げ、それを180ドルで売った。それからもかなり不安な時期をすごしたが、私は決して振り返らず前進した。[11]
2作目の長編『さらば愛しき女よ』(1940) はそれぞれ別の脚本で3度映画化された。1944年の『欲望の果て(英語版)』ではディック・パウエルがマーロウを演じた。チャンドラー自身も脚本を依頼されるようになる。ビリー・ワイルダーと共同で脚本を書いた『深夜の告白』(1944) は、ジェームズ・M・ケインの『倍額保険』が原作だった。このフィルム・ノワールの古典は、アカデミー賞脚本賞にノミネートされた。
チャンドラーの単独書き下ろし脚本としては『青い戦慄』(1946) がある。プロデューサーのジョン・ハウスマンによれば[12]、チャンドラーは結末部分を完成させることができず、酒を飲ませてくれたら完成させると約束し、ハウスマンがそれに同意したという。この脚本でもアカデミー賞にノミネートされた。
アルフレッド・ヒッチコックの『見知らぬ乗客』(1951) でも脚本に参加している。パトリシア・ハイスミスの同名の小説が原作だが、チャンドラーは「ばかばかしいストーリー」と原作を酷評していた[13]。この映画の脚色の際にヒッチコックと衝突し、ヒッチコックをしばしば「あのデブ野郎(that fat bastard)」と、本人に聞こえるように言っていた[14]。ヒッチコックは鼻をつまみながらチャンドラーの草稿脚本を撮影所のゴミ箱に投げ入れたという。しかし、最終的にはチャンドラーの名前が脚本として残っている。
1946年、サンディエゴに程近い海岸沿いのカリフォルニア州ラ・ホヤに引越す。妻シシイは慢性気管支炎で体が衰弱しており、チャンドラーは家事をする合間に執筆していた。『長いお別れ』(1953) を書いた。
1954年12月12日に妻をなくして非常にふさぎ込むようになり、酒におぼれ体調を崩したが、周囲の熱心な支えもあり、1958年に『プレイバック』で復帰する。『プレイバック』はユニバーサル・ピクチャーズのために書いた脚本(映画化されず)が元になっている。さらに翌1959年、『プードル・スプリングス物語』の執筆にとりかかるも、冒頭の第4章まで書いたところで亡くなった。