レイテ沖海戦
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^ 若葉初春〈※初霜は別海域で船団護衛任務中〉
^ 元々フィリピンは「マッカーサー王国」などと揶揄されるほど、マッカーサーにとっては父親の代より利権を多く握っていた国だった。マッツカーサー自身も米陸軍復帰前はフィリピン軍元帥であり、更に緒戦で日本陸軍に敗北した際に、自分を含む高級軍人達だけが脱出し「私は戻ってくる」と宣言した手前もあった。そのため、マーシャルはマッカーサーの個人感情をたしなめる書簡を送っている
^ なお、この大戦の間、アメリカ本国の政軍関係者には軍の動員限界についての考えが背景にあり、労働人口との兼ね合いから他の連合国への武器供給を含めた生産計画と睨みつつ、動員を行っていた。1943年から44年にかけては本国に留保している予備戦力を含めて、陸軍総兵力を90個師団770万人(海軍は200万人)に制限する決定も出され、これを世界にどう配分するかが戦略討議の前提条件であった。更にこの動員限界を超えて徴兵を行うのは、1944年11月の大統領選挙後でなければ不可能との統合参謀本部の見解もあった。そのためマーシャル大将はやや後の9月末にレイテ島上陸以後の作戦を計画した際にも、この件を考慮した上で作戦を検討するべき旨を主張している。(谷光太郎『アーネスト・キング』第12章、『第2次大戦の米軍事戦略』第2章P74、第3章P161、第4章P212-213等も参照。)
^ これは選挙中に前線基地に赴くことで、自分を戦争指導者として国民にアピールする狙いがあった。
^ 攻略予定は9月15日にモロタイ、10月15日にタラウド、11月15日にサランガニ、12月20日にレイテ、などとなっており、リンガエンへの上陸時点でレノ5号に比較し40日短縮されていた。
^ なお、オーバーロード作戦実施直前(計画策定の最終段階)では、ノルマンディー上陸後90日でドイツ本国進撃の態勢を整え10月にはドイツ打倒を実現するスケジュールであったが、上陸から90日を経過した9月初めの段階では、それが不可能なことは明白となった。そのため、ドイツ打倒後3ヶ月で移動を開始し6ヶ月までの間に到着とされたヨーロッパ方面の兵力を当てにすることはできなくなった(福田茂夫『第二次大戦の米軍事戦略』第四章 三、谷光太郎『アーネスト・キング』第11章等に拠る)
^ 戦闘901航空隊飛行隊長で、のちに芙蓉部隊の指揮官として有名となった美濃部正少佐が、自分が偵察飛行を行い誤報であることが判明したと戦後に出版した著書などで主張し、戦史叢書(海軍側の37巻「海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで」だけ、陸軍側の41巻「捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦」には美濃部の名前は登場せず)にも同様の記述があるが、この記述の殆どは美濃部自身の証言に基づくもので、事件後まもなく、ダバオに出向き事件の調査をした軍令部参謀の奥宮正武中佐も、誤報は玉井の偵察飛行で判明したことや、玉井の「陸・海軍を合わせて、大ぜいの参謀がいるのだから、誰か高いところに上がって、状況を確かめればよかった。机の上の作戦とはそんなものだよ。」などの愚痴も聞いたと記述している。美濃部の著書では、美濃部が奥宮から事情聴取を受けたと記述しているが、奥宮の著書には美濃部からの事情聴取の記述はない
^ 実際には、比島寄りの部隊とされたミッチャーの部隊はキンケイド中将麾下の第7艦隊であり、18隻の護衛空母を機動部隊と見誤っていた。ミッチャーはハルゼー機動部隊の第38高速空母部隊指揮官でハルゼー大将の指揮下にいた
^ これは海軍の発表していた台湾沖航空戦での大戦果を、牧野師団長ら現地陸軍部隊が信じて疑わなかったため
^ 例えば軍令部特務班長柿本少将は16時6分に関係各部署に宛てた敵情判断では「現在までの通信状況によれば、スリガオ方面敵上陸作戦は味方防備手薄なる方面に多雨する浸透作戦ないし航空基地獲得を目的とする程度のものにして、大規模本格的比島攻略作戦とは認められず」と通知している
^ なおマッカーサーは翌日以降も上陸して戦線を視察するもその都度乗艦に戻っており、彼が上陸してタクロバンに指揮所を設けたのは、栗田艦隊が湾前で反転する少し前の25日10時頃だった
^ 19日午後に草鹿参謀長よりX日を24日黎明時に変更する事が可能か確認の電文(GF機密第191453番電)が届くが、この時点ではブルネイに計画通り油槽船がいるか確証がなく、24日黎明の突入ができるかどうかは判断できない状況だったので直ぐの返信を避けている
^ 第五戦隊にはこのほか最上が第五戦隊指揮下のもとリンガ泊地で訓練等に従事していた
^ 連合艦隊捷号作戦要領では第一遊撃部隊の上陸地点の突入は上陸開始から2日以内とされ、それを過ぎると上陸部隊は内陸に進軍して射程圏外に移動している可能性が高く物資も揚陸されて何処にあるか把握できない状態となり、突入の効果がないと判断されていた。このため作戦通りで言うなら突入は22日までに実施するものとされていた。しかし連合艦隊は期日内での突入が無理となっても作戦計画を予定通りに実施する決断を下し、これが第一遊撃部隊の指揮官たちの中にくすぶっていた「突入しても既に敵は奥地に進撃していて効果はないのではないか」という疑念を増すことになり、後々反転を決断する遠因の一つとなった。
^ 軍令部は第二艦隊のため、20日に萬栄丸御室山丸、日邦丸、厳島丸に5隻の海防艦千振(旗艦)、十七号、十九号、二十七号、怒和島を護衛につけシンガポールから回航を命じていたが、この手配は栗田艦隊の出撃に間に合わなかった。その後日邦丸、厳島丸はコロン湾への進出を命じられ、両船共25日にブルネイを出港した。
^ 二手に分かれて進撃する事自体は第一遊撃部隊のなかで初期より検討されており、連合艦隊でも挟撃の効果とリスク分散の見方から二手に別れて進撃するよう要望していた。第一遊撃部隊がリンガ泊池を出撃した時点で部隊を第一第二部隊に分けて編成しているのもその点を考慮したものである
^ 進撃航路は4つの案が検討されたが、大きく迂回する第一航路は期日通りに突入することが不可能なので除外され、第三航路は第二航路よりも敵制空圏に早く侵入するので見つかる危険が高いので主力の進路候補から除外された。一方第三部隊の進む第四航路は距離は最短であるが敵潜水艦と会敵する危険が大きく、最も早くに敵制空圏に入ってしまうので大部隊だと早期に発見される可能性が高かった。小柳冨次は「まる一日無駄に過ごした」と述べている。栗田は戦後『決断』の会見記で「パラワン水道を行かずに、第一航路の西方の南沙諸島をまわれば、その付近には岩礁が多いので、敵潜水艦が出没せず、安全であることがわかっていました。だが、そうすれば、1日遅れるのです。その時間がなかったのです」と述べた。
^ 第三夜戦隊配属となった第四駆逐隊から野分を分離、同じく二水戦第二駆逐隊の清霜を臨時に第十戦隊麾下に加え、野分と共に三番隊を編成した
^ 原文「@第一遊撃部隊主力(4S、5S、7S、1S、2Sd、10S)22日0800ブルネイ出撃 実速力16ノット パラワン北航路、24日ミンドロ南方 爾後実速20ないし24ノット 同日日没時サンベルナルジノ東口 X日0400スルアン付近到達 泊地突入 A第三部隊(2S、最上、駆逐艦4)22日午後ブルネイ出撃 スル海経由Xマイナス1日日没時ミンダナオ海西口 スリガオ海峡経由 第一遊撃部隊主力に策応しX日黎明時泊地突入」

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