ルー大柴
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2012年10月、「ルー語」の英語と日本語が混ざった独特の口調でナビゲートしてくれるAndroid?端末用カメラアプリ「ルー大柴のCameraでLet's TOGETHER」をリリース

2013年4月 遠州流より師範を許可される[4]。茶道当代家元小堀宗実お家元より貫庵(かんあん)大柴宗徹(そうてつ)の庵号を与えられた。
芸名の由来

役者活動を始めた22歳の頃は大柴允人(まさひと)、新劇に参加し始めた1983年からは大柴亨介と名乗っていた
[7]。しかし、「大柴亭」「大紫亭」などのように、落語家の様な名前で誤表記される事が多く、「インパクトのある名前を」と言う事で「ルー大柴」という芸名にした。「ルー」は、本名の「亨(とおる)」から。大柴曰く、自身が幼い頃に家の中で暴れていたところ、それを見た父親が「ルー台風」と呼んでいたのが由来とのこと[8]。テレビに出始めたころは、新聞見出しに「ノレー大柴」や「ルール大柴」「ルー大紫」「ルー太柴」「ルー芝浦」「ルー犬柴」と誤表記されたことがあった。また、初めて書いたサインに対しては、「ノレー大紫(のれーおおむらさき)さんですか?」と聞かれたという逸話もある。

人物

自称「職業は旅人」。愛車は2代目
トヨタ・プリウス。1981年に結婚した妻の万規[9]との間に2人の息子がいるが一般人であり公表されていない。


小堺や関根が指摘するように、常識がないというわけでもない所も特徴的である。実際、テレビに出演している時は絶えずモニターをチェックし、モニターチェックが終わった後にはスタッフに「今のよかっただろ?」と、確認するほどである。また、彼らからは、「普段の素顔はテレビのキャラクターは必ずしも当てはまらず、実像はよく気がつく人柄のいい人物だ」と評価されている。


タレントとしてはキャラクター作りとして「Togetherしようぜ!」「この間department storeで」「Januaryで50歳になるんだよ!」など、会話の中に簡単な英単語を入れるのが特徴(しかも我流当て嵌めで文法にも適っておらず正しくない)。その発端は、高校生時代に帰国子女の同学年生と交際していて、どうしても言葉の端々で英単語が出てしまうから、と述べている[10]。また、実父が満州生まれで日本語は無論のこと、の3か国語をも自由に話せるマルチリンガルであったという、幼少時の体験も少なからず影響していた。


また俳優を目指していた経緯から演劇指向が強く、舞台に生きる自らの事を「板人(いたじん)」、また『カンコンキンシアター』では、後輩達に自身の事を「板長(いたちょう)」と呼ばせようとしている。業界でもそんな呼び名はないが、舞台=板の長として団員をまとめあげる、座長の直下のポストであるという自負から来た造語であると推測される。実際、『カンコンキンシアター』では、年齢的にもキャリアも座長の関根に次ぐ年長者でもあり、舞台公演時にカーテンコールで座長を紹介できる唯一の人物でもある。


水辺の生き物が好きで、趣味の一つに“ローチ”の飼育があり、川などに出て採集したり、白変種などを観賞魚店で買い求めている。現在まで続いている“ローチ”との出会いと付き合いは、1998年頃、大柴のテレビ出演が激減しスケジュール帳はいつも真っ白の時期に、息子が通う自然教室についていった際「どじょうってかわいい」と開眼したのがきっかけ。当時の大柴は自ら「人生の“バッドタイム”」であったと思っていたが、今思えばそれは必要な時間だったかもしれないと語っている[注 2]。2006年11月に観賞魚雑誌の月刊アクアライフ2006年12月号で、インタビューを受け、飼育風景の一部が掲載され、その後同誌2007年5月号から連載を開始した。記事の内容は川や用水路での採集や、珍しい“ローチ”の紹介、時には大学の研究室(“ローチ”関係の研究を行っている研究室である)を取材することもあり、独特な文章と裏腹にかなり専門性が高い内容となっている。愛魚には10年以上飼育したヒドジョウのチャッピーなどがいる。2007年6月に『ゆうどきネットワーク』にゲスト出演し、密着取材でオフの日に多摩川で小魚採取に興じる大柴を特集した。『どうぶつ奇想天外!』でも、魚部の子供たちと魚捕りをした。


自宅でくつろぐ方法の1つに、愛する“ローチ”たちを眺め、バッハG線上のアリアを聴きながら“ポテト焼酎”をゆっくり飲むスタイルであると語っている。

交友関係

福山雅治とは、福山の新人時代からの交友関係で、当時まったくの無名だった彼に親身になって相談に乗ったりアドバイスしたりしていた。彼のアルバムの帯にタイトルバックして欲しいと頼まれて快諾し「僕のようにビッグになりなよ!」と書き込んだこともあるが、大柴曰く「今じゃ福山君の方が遥かにビッグになってしまった」。
福山からは今も定期的に電話が掛って来るらしく、一度「ルーさんの自宅にお邪魔していいですか?」と言われたが、大柴の妻が彼の大ファンで妻曰く「恐れ多い」との事で流れてしまった。大柴は福山を弟分と称しており、福山本人は、ルーマニアを公言している。


石田純一とは生年月日・血液型が全く同じでよくネタにしており、これまでに二人は『快傑!ドクターランド』や『ダウンタウンDX』等で顔合わせをしており、後者によるところでは生年月日も血液型も同じなのに生き方が違っていることを羨ましく思っているが(例えば石田に離婚歴と再婚歴があっても自身にはない)、実際には以前から仲がよいことを自身のブログで語っている。

エピソード
子供時代

先述の通り印刷業を営む母方の祖父からは、小さい頃から跡取りとして期待されていた。ただし両親が渋々印刷業をしていたこともあり、本人も稼業を継ぎたいとは思わなかった[4]。子供の頃は、父の英語を交えた日常会話[注 3]やハグなどの言動を恥ずかしく思っていたが、父の話し方は後に大柴の“ルー語”の元となった[4]

中学生の頃に映画館で観た『サウンド・オブ・ミュージック』で、英語で歌って踊って芝居をする役者たちに衝撃を受け、役者に憧れるようになった[4]。高校卒業後「英語を使って海外で自分を表現したい」との思いから、ヨーロッパ(主にイギリスや北欧)を貧乏旅行した[注 4]
芸能界入り、最初のブレイク

その後母方の祖父の死を知って帰国したが既に両親が離婚していたり、帰国直後に祖父の遺産で親族が一時的にゴタゴタしたことから、大柴は遺産を受け取らずに独立[4]。役者になるための足がかりとしてモデル事務所に所属し、チラシのモデルやCMの端役などをしながらバイト三昧の生活を送った。売れないまま27歳で結婚し、30歳の頃に子供を授かったこともあり役者になる夢を諦めかけた[4]

そんな中、面識のあった関根勤から「一回だけでいいからラジオ番組に出てくれ」としつこく口説かれて関根・小堺一機の先述の『スーパーギャング・コサキン無理矢理100%』に出演[4]。この時ルー語を用いたクセのあるキャラが彼らや番組スタッフに大受けしたことで、テレビのバラエティ番組出演など一気に仕事が増えた[4]
マネージャーとの出会い、再ブレイク

1990年代前半の短期間のブレイク後はテレビ出演が激減し舞台活動がメインになっていたところ、「ルーさん最近テレビに出てないね」と“風のボイス”が大柴の耳に入るようになっていた。そんな折2005年に現在のマネージャー(兼所属事務所社長)と出逢い、「今の感じでやっていたら60歳までもたない。もう一度チャンスを掴みたいんだったら今のルー大柴を捨てたほうがいい」と仕事に対する意識変革を促された。その際、マネジャーから3つの決め事(「真面目に台本を読み込む」、「ギャラの額によってやる気を変えない」、「ファッションにも気を遣う」)を提示された[4]。それを素直に受け入れた所、不思議と仕事が途切れなくなり、50代での再ブレイクに繋がった[4]

またマネージャーからは、「仕事を増やすため、新しく趣味のようなものを始めた方がいい」と助言された[4]。「50歳になって、今までの自分にないことをしよう」という趣旨で自らのブログを開設する事にした。そのブログに関しての話題が「2006年の“ノーベンバー”頃から、2ちゃんねる経由で火がつき」、世間の人々が注目するようになった[11]

さらに2006年からは、茶道に入門して[注 5]月に3回のペースで茶道の先生の所に通って習得。2022年現在も遠州流で稽古をつけてもらっている。茶道習得後は仕事現場で時々お点前してスタッフなどにお茶を振る舞ったり、コロナ禍の現在(2022年)は自宅で薄茶を楽しむなどしている[4]

大柴は、マネージャーとの出逢いを「砂浜に落としたダイヤモンドを見つけたくらいのデスティニー」と表現し、浅井企画からの独立以降も二人三脚で新しい芸風に挑んでいる[12]
その他エピソード

この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2020年5月)


かつて『森田一義アワー 笑っていいとも!』では、ダウンタウン・関根勤と共に月曜レギュラーとして出演。


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