生活の大半をニューヨークで過ごしており、作品にも好んで取り上げられる。
1996年に、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはロックの殿堂入りを果たし、2015年には、個人でもロックの殿堂入りを果たした。またリードは、1995年のフランク・ザッパ、2008年のレナード・コーエンが同じく殿堂入りした際に、プレゼンターとして出向いた。ザッパに於いては、マザーズ・オブ・インヴェンションと自らのヴェルヴェット・アンダーグラウンドを対比させて、ザッパの音楽的功績を称えるスピーチをしている。
私生活では長らくバイセクシュアルであるとされ、結婚を三度経験している。その最も新しいパートナーであるヴァイオリニストのローリー・アンダーソンとは、長きにわたるパートナーシップの結果、2008年4月12日に正式に結婚したことが明らかとなった。挙式はコロラド州にて、ごくプライベートな形で行われたという。
2013年に入ってから肝臓の移植手術を受けたことがメディアで報じられ、予後にローリー・アンダーソンとの外出写真が出るなどしたが、10月27日、肝臓疾患の関連病のためニューヨーク州サウサンプトンにある自宅で死去[4]。71歳没。
遺産については妻のローリー・アンダーソン、リードの妹に母親の介護資金として分配され、また、リードの作品の許認可や著作権管理などは、これまでリードを支えてきたビジネス・マネージャーと会計士に引き続き託されることになるという[5]。
リードの死去のニュースを受け、多くのミュージシャンが追悼のコメントを寄せている。
追悼コメントを寄せた主なミュージシャンは、以下の通り。 リード死去の後、妻のローリー・アンダーソンは『ローリング・ストーン』誌に寄稿して、リードとの出会い、結婚の思い出、そして死の瞬間まで語った。 ローリーがリードに初めて出会ったのは1992年にドイツのミュンヘンで開催された音楽フェスでの共演の時だった。このフェスの企画で出演者同士での共演を行うように要請された際、ローリーはルーに声をかけられ、自分のバンド演奏に合わせてなにか朗読してほしいとリクエストを受け、これがきっかけとなって、まずは知り合いになったと語っている。 もともと前衛パフォーマンス・アーティストとして知られていたローリーは、ロックには疎くヴェルヴェット・アンダーグラウンドはイギリスのバンドだと思い込んでいたという。ローリーはリードのことは最初からとても気に入っていたこともあり意気投合。その後の初めてのデートについて次のように回想している。 「そして、ついにルーの方から、一緒にオーディオ・エンジニアリング協会見本市に行かないかという誘いがあったのだ。私はどっちみちいくつもりだったからと答え、マイクロフォンのブースで落ち合うことにした。この見本市は最新の機材をチェックするには最高で最大規模のもので、私たちはアンプやシールドを物色しては、エレクトロニクス・ブースのスタッフといろいろ話し込んで、楽しい午後を過ごすことになった。この時点で私はこれが実はデートだったとは思いもよらなかったが、見本市の後でコーヒーを飲みに行くと、ルーは『これから映画でも観に行かない?』と誘ってきた。もちろん、と私は答えた。するとルーは『それから一緒に夜ご飯でもどう?』と訊いてきた。いいわよ。さらにルーは『食後はさ、散歩でもしようか』と続ける。うーん……そして、その先、ルーと私が離れることはもうなくなってしまったのだ」 その後、2人は親友、あるいはソウルメイトとして21年間一緒に生活することになったが、2008年に結婚することになった経緯を以下のように語っている。「あれは2008年の春のこと、私はカリフォルニアの道端を歩いていて、自分のことが嫌になってきてルーに携帯で話をしていたのだった。『やりたいと思ってたのにやれなかったことがたくさんあるの』とわたしはルーに話した。
デヴィッド・ボウイ、ジョン・ケイル、ベック[要曖昧さ回避]、ザ・フー、ライアン・アダムス、カール・バラー、ネイサン・フォロウィル(キングス・オブ・レオン)、ジェラルド・ウェイ、リー・ラナルド(ソニック・ユース)、サブ・ポップ、ナイル・ロジャース、ウィーザー、パトリック・カーニー(ザ・ブラック・キーズ)、アーヴィング・ウェルシュ、トム・モレロ、ポール・エプワース[6]、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ[7]、ラーズ・ウルリッヒ(メタリカ)[8]、U2[9]、パティ・スミス[10]、エイドリアン・ブリュー[11]、イギー・ポップ[12]、モリッシー、ジュリアン・カサブランカス(ザ・ストロークス)、ニッキー・シックス(モトリー・クルー)[13]。
ローリー・アンダーソンとの出会い、そして結婚まで