ルー・テーズ
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同年10月14日、カリフォルニア州ロサンゼルスにてバディ・オースチンからWWA認定世界ヘビー級王座を奪取したが、同月28日にマーク・ルーインに敗れ短命王者となっている[11]

1967年6月、初代TWWA世界ヘビー級王者に認定され、翌1968年1月に国際プロレス(当時はTBSプロレス)に参戦。グレート草津の挑戦を受け、1本目で実力を見破り、バックドロップで草津を失神させる。2本目は棄権、テーズが防衛に成功。草津をスターに仕立てようとするTBSの目論みは失敗に終わった。

1973年10月14日、新日本プロレスに初登場、カール・ゴッチと組んでアントニオ猪木&坂口征二と「世界最強タッグ戦」を行う。このときテーズは57歳、ゴッチは49歳であったが、当時の両者の名声から、この年齢にかかわらず「世界最強タッグ」の看板に説得力を持たせることができた。

1975年10月9日、新日本プロレスに再来日し、アントニオ猪木の持つNWF認定世界ヘビー級王座に挑戦する。猪木にブロックバスター・ホールドからフォールされ王座獲得はならなかったが[12]、試合開始直後の先制のバックドロップなど健在をみせつけた。

1977年8月15日、前年に旗揚げされたメキシコユニバーサル・レスリング・アソシエーションから、初代UWA世界ヘビー級王者に認定された[13]1978年8月27日、カネックに敗れUWA王座陥落。

1980年9月、テネシー州メンフィスコンチネンタル・レスリング・アソシエーションにてビル・ロビンソンのCWA世界ヘビー級王座に連続挑戦[14]。同時期、CWAを外国人選手の供給ルートとしていた国際プロレスに特別レフェリーとして度々来日。エキシビション・マッチも行った。1981年1月に開催されたルー・テーズ杯争奪戦の前期予選にも来日し、特別レフェリーを務めた。

1983年4月、全日本プロレスに来日。ルー・テーズ杯争奪リーグ戦の決勝戦(越中詩郎VS三沢光晴)のレフェリーを務めた。全日本にはこの時期数回来日し、ジャンボ鶴田にバックドロップを伝授している。

1985年9月19日、新日本プロレスに来日。東京都体育館にて行われたアントニオ猪木VS藤波辰巳IWGPヘビー級王座戦の特別レフェリーを務めた。

1986年、右臀部を手術する。以後レスラーとしてはセミリタイア状態となった。

1987年11月16日、WWFニュージャージー州メドーランド大会でのオールドタイマーズ・バトルロイヤルに出場、決勝でパット・オコーナーをオーバー・ザ・トップロープで破り優勝(他の参加選手は、ジン・キニスキーエドワード・カーペンティアボボ・ブラジルクラッシャー・リソワスキーキラー・コワルスキーニック・ボックウィンクルレイ・スティーブンスペドロ・モラレスアーノルド・スコーランアート・トーマスチーフ・ジェイ・ストロンボーバロン・シクルナジノ・ブリットトニー・ガレアレネ・グレイドミニク・デヌーチアル・コステロなど)[15]

1987年セッド・ジニアスがテーズに弟子入りし、その後は北尾光司蝶野正洋も入門する。

1989年4月24日、新日本プロレス初の東京ドーム大会「’89格闘衛星☆闘強導夢」でレフェリーを務める。

1990年12月26日、74歳7ヶ月で新日本プロレス、静岡県浜松アリーナで試合。蝶野正洋と対戦しSTFで敗れ、引退を宣言する。

1991年12月22日よりUWFインターナショナルに最高顧問、立会人として参加し、永久保持している元NWA世界ヘビー級王座ベルト、通称テーズベルトを貸し出して「プロレスリング世界ヘビー級王座」の名称とし、高田延彦らが王者となる。

2002年3月9日、妻チャーリーとともに訪日。U.W.F.スネークピットジャパン代表の宮戸優光結婚式に出席。

2002年4月28日フロリダ州オーランドの病院で心臓バイパス手術を受けたが、肺炎を併発させて心臓疾患にかかり、86歳で死去。

2016年4月2日、プロレス界での功績を称え、WWE殿堂のレガシー部門に迎えられた[16]
得意技
バックドロップ
テーズは、この技の元祖であり、威力を世界中に広めたレスラーであり、テーズはグレコローマン・バックドロップと呼んでいる。エド・ルイスのヘッドロックへの返し手としてこの技が生まれたという[17]。後にアントニオ猪木ジャンボ鶴田が使用し広く他のレスラーに浸透するヘソ投げ式と、ブリッジをかけない落とし方の2種類を使い分けた。ヘッドロックの返し技としてもよく使用していた。高角度であり、テーズが活躍していた時代は使用するマットが硬かったため、それも手伝って高い威力を持つ必殺技であった[18]。現在は必殺技としての説得力は高いとはいえないが、多くのレスラーが様々な投げ方で使用するポピュラーな技として定着している。かつては岩石落とし、脳天逆落としなどと訳されることもあった。なお、テーズが日本におけるバックドロップの後継者として指名したのは3人で、猪木・鶴田・ラッシャー木村であった。これは1981年前後、国際プロレスの外国人選手招聘に力を貸して訪日していた際の発言である。
フライング・ボディシザース・ドロップ(ルー・テーズ・プレス)
詳細はリンク先を参照。
リバース・パイルドライバー
一種のパイルドライバーリバース・スラムとも呼ばれる。テーズのパイルドライバーはパワーボムの原型となったもので、高角度で抱えておいて落とすものであった。危険な技で日本では使用されることはなかったが、力道山がこの技を受けている。またテリー・ゴディにこの技を伝授し、ゴディはさらに改良を加えてパワーボムとして自らの必殺技とした。
STF


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