ルー・ゲーリッグ
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当時の看板選手であるベーブ・ルースの直接指導の甲斐もあって1925年にはレギュラーに定着し、437打席で打率.295、20本塁打68打点を挙げた。

1926年に主力打者として大きく開花し、打率.313に47本の二塁打と、アメリカンリーグでトップの20三塁打、16本塁打、112打点を挙げた。セントルイス・カージナルスと対戦した同年のワールドシリーズでは打率.348で4打点を挙げるものの、ヤンキースは3勝4敗に終わり、世界一にはあと一歩届かなかった。この年、渡米していた日本のセミプロ野球チームの大毎野球団がヤンキースタジアムを訪れており、その際にゲーリッグを「偉大なる体格の持ち主であって打撃は将来恐るべきもので、第二のルースとの噂が高い」と記している[5]1923年。ニューヨーク・ヤンキースのユニフォームを着用するゲーリッグ1927年。少年達に囲まれるゲーリッグ(右端)とベーブ・ルース(ゲーリッグの隣)

1927年は記録的な年であった。打率.373、47本塁打175打点に218安打を挙げ、この年の一シーズン117長打はベーブ・ルースに次ぐ歴代2位であり、また447塁打も歴代3位の数字である。ルースとゲーリッグの二枚看板を中心とした強力打線は「マーダラーズ・ロウ(殺人打線)」と呼ばれ、この強力打線を武器にヤンキースは110勝44敗の成績を残し、ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズも4連勝で制覇。この年のヤンキースがMLB歴代最強のチームだったとする評価も多い。シーズン60本塁打を放ったルースを差し置いてゲーリッグはア・リーグの年間MVPに選出された(ちなみにゲーリッグとルースの2人でこの年のア・リーグの全本塁打439本の1/4近くを叩き出している。また、この年のア・リーグの本塁打ランキングでルース、ゲーリッグに続いたのが18本のトニー・ラゼリであり、ゲーリッグがルースと並ぶ傑出した長打力の持ち主であることは間違いなかった)。

ルースの陰に隠れがちではあったが、ゲーリッグの得点能力は球史でも随一のものだった。本塁打王に3回、打点王に5回輝き、打率.350以上6回、150打点以上7回、100四球以上11回、200安打以上8回、そして40本塁打以上が5回もあった。1931年の184打点は未だに破られていないア・リーグ記録である。1934年には三冠王も獲得している。「アイアン・ホース」「静かなる英雄」と呼ばれ、陽気なルースに対して物静かなゲーリッグと好対照でよく比較された[6]

私生活では1933年9月にシカゴ・パークスの支配人フランク・ツイッチェルの娘エレノアと結婚している。のち、エレノア夫人はゲーリッグの晩年と最期を看取り、その時の回顧録を執筆している。
2130連続試合出場

1925年6月1日、ゲーリッグは貧打の遊撃手ポール・ワニンガーの代打として登場。翌日にはスランプのレギュラー一塁手ウォーリー・ピップの代役として先発出場した[8]。この時のゲーリッグ起用はチームが不振であったための応急処置的な措置であり、当時のミラー・ハギンス監督がちょくちょく行っていたスタメン変更の一環であった。しかし、ゲーリッグはこの1試合のチャンスでスタメンの座をつかみ、ここから14年に及ぶ連続試合出場記録が始まった。なお、ピップはこのシーズン終了後シンシナティ・レッズにトレードされている。

ゲーリッグの連続出場はもちろん全てがフルイニングというわけではなく(全試合フルイニング出場したシーズンは1931年の1シーズンだけである)、時には代打出場によって続けられた。例として、腰痛の発作に襲われた際には「1番・遊撃手」で登録され安打を打った後すぐに交代したり、審判に抗議して退場となる(連続出場期間中にも6回退場を記録している)が既に打席に立っていたため出場と記録されたこともあった。
「何かがおかしい」

1938年シーズンの半ばから、ゲーリッグの成績は段々と下降線をたどり始める。これについて本人は当時「シーズン半ばで疲れてしまった。なぜかはわからないが、何か頑張れる気がしない」と述べている。また、エレノア夫人には30歳の誕生日以来脚に力が入らなくなっていると伝えている。夫人はゲーリッグが脳腫瘍にかかったのかもしれないと心配していた。対戦相手であるデトロイト・タイガースの投手エルドン・オーカーは後年、「ルーが病気になったと聞いたので、私は彼がいつからおかしくなったのか考えた。具体的な日時を言えと言われたら、1938年7月1日頃(この年のシーズン半ば)から、明らかに彼のプレイはおかしくなっていた」と回想している。

ゲーリッグはシーズン前の1938年1月に『ローハイド』という西部劇映画で主演俳優として出演している。映画の中でゲーリッグはビリヤードの球を投げつけたりするなど、一見問題ないようにアクションをこなしていたが椅子から立ち上がるのに手を付いたり、歩くときに少しふらついたりするなどしており、下肢筋力低下の軽い症状があらわれていた。

ゲーリッグは次第に弱々しくなっていき、ロッカールームやフィールド上でさえ突然倒れてしまうこともあった。ほとんどの記者やファンは連続試合出場による疲れだと信じていた。35歳になってはいたが、周りのチームメイトはまだまだ限界ではないと思っていた。結局ゲーリッグは、1938年7月1日を境に、一時的に復調するものの低調のままシーズンを終えることになる。その年のワールド・シリーズでヤンキースはシカゴ・カブスに4連勝したが、ゲーリッグ自身の成績は14打席中、打率.286、4一塁打という散々なもので、祝勝会でゲーリッグはウィスキーを何杯もがぶ飲みしてひどく荒れていたという。

少なくともゲーリッグの1938年の成績は打率.295、29本塁打、114打点とリーグ平均を遥かに上回っており、ルースの引退間際の成績さえ大きくしのいでいた。ただ、親友でもあったビル・ディッキーはゲーリッグの異変に気づいており、ある日ケチャップのボトルを持ち上げられず、代わりにディッキーが取り上げてやったエピソードが残っている。1938年の暮れになると、道路のわずかな段差でも頻繁につまずくようになり、得意だったアイススケートでも頻繁に転ぶようになった。

シーズン終了後、ゲーリッグはニューヨークの専門家に話を聞きに行ったところ、胆嚢に問題があるという専門家の診断を受けた。エレノア夫人はこの見立てに疑いを隠さなかったものの、ゲーリッグはその診断を信じて治療を任せた。健康を取り戻してヤンキースの勝利に貢献する事を自身の大きな目標とし、それに全力を注ごうとしたのである。ヤンキースに対する忠誠心は強く、球団が年俸の3000ドルダウンを提示してもゲーリッグは素直にそれを受けている。

1939年のスプリングトレーニングが開幕しても、ゲーリッグの気力が回復することはなく、例年通りに激しいトレーニングを行って心を奮い立たせようとしても、状況は改善されなかった。


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