ルール占領
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会議の結果、ドイツは総額2260億金マルクを42年間にわたって支払うことが求められた[8]。ドイツは賠償総額の削減を求めたが、3月1日から開催されたロンドン会議においてその要求は拒否され、8日からはデュッセルドルフなどが一時占領された。5月5日、連合国は賠償金の総額を1320億金マルクとし、ドイツは年20億金マルクと輸出額の26%を支払うように求め、ドイツが拒否した場合はルール地方を占領するという通告(ロンドン最後通牒)を行った[8]。賠償金削減に努力してきたドイツのフェーレンバッハ内閣は、この要求によって連立政権内部が紛糾し、総辞職した。それを受けて5月10日に成立したヴィルト内閣は少数与党であったが、ドイツ社会民主党独立社会民主党中央党、そしてドイツ民主党の大半の議員が要求受諾を受け入れ、220対172で可決された[9]。ヴィルトは賠償金支払いの「履行政策」を掲げ、5月31日に10億マルクの支払いを開始した[9]

しかし1921年度分の賠償を支払うことはできたものの、翌年分の支払いは困難となった。12月14日にドイツは賠償委員会に対して翌1922年1月と2月の賠償支払い延期を要請した。委員会は延期を認めたものの、支払計画の提出と、一部の賠償支払いを要求した[10]。この間にフランスでも政変が起こり、対独強硬派のレイモン・ポアンカレが首相となった。ヴィルト内閣は税制改革や強制公債発行などを主軸とする支払計画を作成したが、強制公債に対してはドイツ国内でも強い反発があった[11]。しかしインフレーションの進行により、公債による賠償資金調達は失敗に終わった[12]。ドイツはジェノア会議において賠償金問題を取り上げるよう要請したが、フランスの反対により取り上げられなかった[13]。1922年後半にはインフレがさらに進行し、マルクの対ドルレートは、7月に1919年時点の117.5倍、12月には1807.8倍に達していた[14]。ドイツはこの状況では支払は不可能であるとし、残りの1922年分と1923年、1924年分の支払免除を求めた[14]。8月の連合国会議は支払い猶予については決定を延期するとしながらも、政府公債による支払を認めるなど、1922年中については事実上支払を免除した[14]。11月14日、ヴィルト内閣は総辞職したが、それとともに「賠償金・現物払いの3?4年免除」を求める覚書を提出し、ヴィルヘルム・クーノ内閣もその見解を継承し、改めて連合国に支払の2年猶予を求めた。しかし12月19日からのロンドン首脳会議においてポアンカレは、ドイツに対して「生産的担保」を求め、ドイツ案は不十分であるとした[15]。フランスも対英米の債務に苦しんでおり、賠償金支払いは不可欠であった。
占領開始葬儀の後、クルップの工場から墓地へ向かう犠牲者の棺(1923年4月10日)フランス軍の命令に従わなかったとして行われた鉄道労働者の大量追放により、ルール地方を離れる家族(1923年4月)

12月26日、連合国賠償委員会はドイツによる木材の現物賠償による引き渡し量の不足は、ドイツ政府の故意によるものであると認定した。この認定にはイギリスは反対し、1923年1月に開催されたパリ会議では賠償総額を500億マルクに減額するなど、支払の緩和政策を主張した[16]。しかしフランスはこれを拒絶し、会議は物別れとなった[16]。さらに1月9日の賠償委員会では石炭供与についても不履行があると認定した[15]グスタフ・シュトレーゼマンは、フランスが1922年に受け取れる現物賠償を、国内産業への配慮から故意に受領しなかったとして批判している[17]

1月4日、ポアンカレはルール占領を声明し、1月11日からフランス5個師団、ベルギー2個師団がルール地方の占領を開始した[16]。占領の公式な名目はルール地方の工業および鉱山の監視する連合国監視団の保護であったが、実際にはルール地方の物流を差し押さえることによって賠償を確保するとともに、ドイツに圧力を加えるためのものであった[18]


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