ルーム・セルジューク朝
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スィヴァス(1211年 - 1220年)
コンヤ(1220年 - 1308年)


スルターン
1077年 - 1086年スライマーン
1092年 - 1107年クルチ・アルスラーン1世
1156年 - 1192年クルチ・アルスラーン2世
1220年 - 1237年カイクバード1世
1308年 - 1308年マスウード3世

面積
1243年400,000km²

変遷
建国1077年
第1回十字軍によりニカイアを喪失1097年6月19日
ミュリオケファロンの戦い1176年9月17日
キョセダーの戦い1243年6月26日
滅亡1308年

通貨ディルハム
現在 トルコ
先代次代
ビザンツ帝国
大セルジューク朝
ダニシュメンド朝
アルトゥク朝
サルタク朝モンゴル帝国
イルハン朝
オスマン帝国
カラマン侯国
ベイリク
アンティオキア公国

ルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジュークちょう、ペルシア語: ???????? ???‎ Salj?qiy?n-i R?m、: Rum sultanate)は、セルジューク朝大セルジューク朝)の地方政権として分裂して成立し、アナトリア半島を中心に支配したテュルク人のイスラム王朝である。当初、首都はニカイア(現在のイズニク)に定められていたが、1097年第1回十字軍によってニカイアが占領されたため、再びコンヤを都とした。「ルーム」とは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。
歴史
建国初期ニカイアのイスタンブールニカイア包囲戦ドレリウムの戦い

建国者のスライマーン1世・イブン=クタルミシュは、セルジューク家の祖セルジュークの玄孫にあたる[1]。スライマーンの父クタルミシュアルプ・アルスラーンとセルジューク朝の王の地位を争うが、1063年のデヘ・ナマクの戦いで敗れ、敗走の途上で没した[2]。敵対者の子であるスライマーンは命こそ助けられたが、王族としての扱いは受けられなかった[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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