ルーマニア
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なお、同国人口の大半はルーマニア人であり、宗教的には東方正教会のキリスト教が主体となっており、ロマンス語[注釈 3]に分別される言語であるルーマニア語が用いられている。

現代のルーマニア国家は、1859年にモルダヴィアとワラキアのドナウ公国の個人的な連合によって形成されたものに端を発する。

現在のルーマニア地域への定住は、旧石器時代に始まり、古代末期のローマ帝国によるダキア王国とその征服、その後のローマ化を証明する文書記録が確認されている。1866年から正式に「ルーマニア」と名付けられた国家は、1877年にオスマン帝国から独立を果たした。

第一次世界大戦中、ルーマニアは1914年に中立を宣言した後、1916年から連合国と共に参戦した。戦後、ブコヴィナ、ベッサラビア、トランシルヴァニア、バナト、クリシャナ、マラムレシュの一部は前身国家であるルーマニア王国の構成地域となった。1940年の6月から8月にかけて、モロトフ・リッベントロップ協定第二次ウィーン裁定の結果、ルーマニアはベッサラビアと北ブコヴィナをソビエト連邦へ、北トランシルヴァニアをハンガリーへ割譲することを余儀なくされた。更に同年11月、ルーマニア王国は日独伊三国同盟に調印し、1941年6月には枢軸国側として第二次世界大戦に参戦し、1944年8月に連合国へ加わり、北トランシルヴァニアを奪還するまでソ連と交戦した。赤軍による侵略戦争と占領の後、同王国は社会主義共和国となり、ワルシャワ条約機構のメンバーとなった。1989年の革命後、ルーマニアは民主主義市場経済への移行を開始し、共和制国家へと転身。以後は現在に至っている。

ルーマニアは現在、先進国の一員であり[4][5][6]、国際情勢におけるミドルパワーとして台頭しつつある[7][8]。ルーマニアは2000年代初頭に急速な経済成長を果たしている。同国経済は現在、サービス業を主体とする商業に基づく形で成り立っており、自動車産業ではダチアやOMVペトロムなどの企業を通じて、自動車と電気エネルギーの生産ならびに純輸出を行なっている。その経済は欧州連合加盟国の中で最も急速に成長しており[9]、名目GDPで世界第44位、PPPでは第36位にランクされている。更にルーマニア国民は世界で最も速く且つ最も安いインターネット回線の1つを享受しており[10]、傍ら幸福度ランキングでも比較的上位にランクされている[11]

ルーマニアは国際連合(UN)、欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)、欧州評議会(CoE)、黒海経済協力機構(BSEC)、世界貿易機関(WTO)のメンバーの一国である。
国名

正式名称はルーマニア語で Romania [rom??ni.a] ( 音声ファイル)。原音により忠実にカナ表記すると「ロムニア」が近い。

国名の由来(語源)は、ラテン語で「ローマ人(ローマ市民)の土地」という意味の表現。

ハンガリー語の表記は Romania [roma?ni?](ロマーニア)。

かつて、英語では Rumania、ドイツ語では Rumanien、フランス語では Roumanie[注釈 4]と表記するなど、現地の発音とは一つめの母音から既にずれた表記が流通していた。近年では、現地の表記に沿う方向で修正される動きもあり、たとえば英語での公式表記は Romania となったが、英語はロマンス諸語に表記だけを似せても発音は「[ro??me?ni?] ( 音声ファイル)」(ロゥメイニア)となり、あまり参考にならない。
日本語表記

日本語の表記は、昔の英語式の表記に影響を受けた「ルーマニア」となっている。漢字表記は羅馬尼亜(羅馬尼亞)、緑馬尼、羅[注釈 5]と略される。中国語も同じく「羅馬尼亞」と表記する。

独立してからの日本語での正式名称は、以下のように変遷している。

1859年 - 1881年 ルーマニア公国(連合公国)

1881年 - 1947年 ルーマニア王国

1947年 - 1965年 ルーマニア人民共和国

1965年 - 1989年 ルーマニア社会主義共和国

1989年 - 現在 ルーマニア

現在では政体を指す共和国は含まない国名が正式名称となっており、「ルーマニア共和国」という表記は誤りである。
歴史詳細は「ルーマニアの歴史」を参照「モルダヴィア」も参照古代ダキアヴラド・ツェペシュ

古代にはゲタイ人古代ギリシア語: Γ?ται)と呼ばれる民族が居住していた。紀元前513年、イストロス河(古代ギリシア語: ?στρο?、現・ドナウ川)の南でゲタイ人部族連合が、対スキタイ戦役中のペルシアダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。

約600年後、ダキイ人ラテン語: Daci)は、ローマ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスによる2度の遠征(101年 - 106年)に敗れ、ローマ帝国の領土となった。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。国歌の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯からである[12]

238年から258年にかけて、ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征した。ローマ帝国はドナウ川南まで後退し、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編した。

271年、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いたのち、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。ゲピド人アヴァールトランシルヴァニア8世紀まで支配した。その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、その支配は1000年まで続いた。このころの史料には、ペチェネグ人、クマ人、ウゼ人への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国ドラゴシュによるモルダヴィア公国の成立が続いた。

中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国ハプスブルク家の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアロシア帝国割譲した(パリ条約により1920年に再合併)。北東部は1775年オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領であった[13]


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