ルーマニアは国際連合(UN)、欧州連合(EU)、北大西洋条約機構(NATO)、欧州評議会(CoE)、黒海経済協力機構(BSEC)、世界貿易機関(WTO)のメンバーの一国である。 正式名称はルーマニア語で Romania [rom??ni.a]
国名
国名の由来(語源)は、ラテン語で「ローマ人(ローマ市民)の土地」という意味の表現。
ハンガリー語の表記は Romania [roma?ni?](ロマーニア)。
かつて、英語では Rumania、ドイツ語では Rumanien、フランス語では Roumanie[注釈 4]と表記するなど、現地の発音とは一つめの母音から既にずれた表記が流通していた。近年では、現地の表記に沿う方向で修正される動きもあり、たとえば英語での公式表記は Romania となったが、英語はロマンス諸語に表記だけを似せても発音は「[ro??me?ni?] ( 音声ファイル)」(ロゥメイニア)となり、あまり参考にならない。
日本語表記
日本語の表記は、昔の英語式の表記に影響を受けた「ルーマニア」となっている。漢字表記は羅馬尼亜(羅馬尼亞)、緑馬尼、羅[注釈 5]と略される。中国語も同じく「羅馬尼亞」と表記する。
独立してからの日本語での正式名称は、以下のように変遷している。
1859年 - 1881年 ルーマニア公国(連合公国)
1881年 - 1947年 ルーマニア王国
1947年 - 1965年 ルーマニア人民共和国
1965年 - 1989年 ルーマニア社会主義共和国
1989年 - 現在 ルーマニア
現在では政体を指す共和国は含まない国名が正式名称となっており、「ルーマニア共和国」という表記は誤りである。
歴史詳細は「ルーマニアの歴史」を参照「モルダヴィア」も参照古代ダキアヴラド・ツェペシュ
古代にはゲタイ人(古代ギリシア語: Γ?ται)と呼ばれる民族が居住していた。紀元前513年、イストロス河(古代ギリシア語: ?στρο?、現・ドナウ川)の南でゲタイ人の部族連合が、対スキタイ戦役中のペルシア王ダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。
約600年後、ダキイ人(ラテン語: Daci)は、ローマ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスによる2度の遠征(101年 - 106年)に敗れ、ローマ帝国の領土となった。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。国歌の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯からである[12]。
238年から258年にかけて、ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征した。ローマ帝国はドナウ川南まで後退し、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編した。
271年、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いたのち、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。ゲピド人、アヴァールがトランシルヴァニアを8世紀まで支配した。その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、その支配は1000年まで続いた。このころの史料には、ペチェネグ人、クマ人、ウゼ人への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国、ドラゴシュによるモルダヴィア公国の成立が続いた。
中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアをロシア帝国に割譲した(パリ条約により1920年に再合併)。北東部は1775年、オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領であった[13]。
トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、のちにハプスブルク家領となったが、1526年にオスマン帝国の属国となった(オスマン帝国領ハンガリー)。18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続いた。ルーマニア国土の変遷(1859年 - 2010年)。濃い緑がその時代の領土、薄い緑がルーマニアが領有したことのある地域。
1859年にワラキアとモルダヴィアの公主が統一され、1861年、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立した(ルーマニア公国)。1877年には露土戦争に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行った。1878年、ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立した。
第一次世界大戦では中央同盟国に攻め込まれ一時屈服したものの、与した連合国が勝利したことからトランシルヴァニアなどを併合して領土を倍増させ[14](「ルーマニア戦線」「トリアノン条約」参照)、大ルーマニアを実現させたが、全人口の4分の1が異民族という不安定な国家となった[15]。1918年ベッサラビアを回復したが、これは1940年に再びソビエト連邦に占領され、最終的に割譲することとなる(現在はモルドバ共和国、ウクライナ)。
第二次世界大戦が始まると、ソ連はベッサラビアなどルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王カロル2世を批判し、退位させた。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦した。この参戦により、ソ連が占領した地域を回復した。しかし、ドイツ敗退により再度ソ連に侵攻され、1944年8月の政変で独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派を逮捕して連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させたあとにチェコスロバキアまで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。