現在では政体を指す共和国は含まない国名が正式名称となっており、「ルーマニア共和国」という表記は誤りである。
歴史詳細は「ルーマニアの歴史」を参照「モルダヴィア」も参照古代ダキアヴラド・ツェペシュ
古代にはゲタイ人(古代ギリシア語: Γ?ται)と呼ばれる民族が居住していた。紀元前513年、イストロス河(古代ギリシア語: ?στρο?、現・ドナウ川)の南でゲタイ人の部族連合が、対スキタイ戦役中のペルシア王ダレイオス1世に敗れた(ヘロドトス『歴史』4巻93)。
約600年後、ダキイ人(ラテン語: Daci)は、ローマ帝国への侵攻に怒ったローマ皇帝トラヤヌスによる2度の遠征(101年 - 106年)に敗れ、ローマ帝国の領土となった。その王国の4分の1はローマ領となり、ローマ帝国の属州ダキアとなった。現在の国名もその時の状態である「ローマ人の土地(国)」を意味する。国歌の歌詞にトラヤヌスが登場するのは、こうした経緯からである[12]。
238年から258年にかけて、ゴート人とカルピイ人がバルカン半島まで遠征した。ローマ帝国はドナウ川南まで後退し、以前の属領上モエシアの一部に新しく属領ダキアを再編した。
271年、かつてのダキアにゴート人の王国が建てられ、4世紀終わりまで続いたのち、フン人の帝国に併呑された。中央アジア出身の遊牧民族が入れ替わりルーマニアを支配した。ゲピド人、アヴァールがトランシルヴァニアを8世紀まで支配した。その後はブルガール人がルーマニアを領土に収め、その支配は1000年まで続いた。このころの史料には、ペチェネグ人、クマ人、ウゼ人への言及も見られる。その後、13世紀から14世紀にはバサラブ1世によるワラキア公国、ドラゴシュによるモルダヴィア公国の成立が続いた。
中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国があった。完全な独立ではなく、オスマン帝国やハプスブルク家の支配下にあった。ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国であった。モルダヴィアは1812年東部のベッサラビアをロシア帝国に割譲した(パリ条約により1920年に再合併)。北東部は1775年、オーストリア帝国領土となり、南東部のブジャクはオスマン帝国領であった[13]。
トランシルヴァニアは11世紀にハンガリー王国の一部となり、王位継承により1310年以降アンジュー家、のちにハプスブルク家領となったが、1526年にオスマン帝国の属国となった(オスマン帝国領ハンガリー)。18世紀には再びハプスブルク家のハンガリー王国領となり、第一次世界大戦の終わる1918年までその状態が続いた。ルーマニア国土の変遷(1859年 - 2010年)。濃い緑がその時代の領土、薄い緑がルーマニアが領有したことのある地域。
1859年にワラキアとモルダヴィアの公主が統一され、1861年、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立した(ルーマニア公国)。1877年には露土戦争に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行った。1878年、ベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立した。
第一次世界大戦では中央同盟国に攻め込まれ一時屈服したものの、与した連合国が勝利したことからトランシルヴァニアなどを併合して領土を倍増させ[14](「ルーマニア戦線」「トリアノン条約」参照)、大ルーマニアを実現させたが、全人口の4分の1が異民族という不安定な国家となった[15]。1918年ベッサラビアを回復したが、これは1940年に再びソビエト連邦に占領され、最終的に割譲することとなる(現在はモルドバ共和国、ウクライナ)。
第二次世界大戦が始まると、ソ連はベッサラビアなどルーマニアの一部を占領した。国民は列強の領土割譲に対して無為無策であった国王カロル2世を批判し、退位させた。ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦した。この参戦により、ソ連が占領した地域を回復した。しかし、ドイツ敗退により再度ソ連に侵攻され、1944年8月の政変で独裁体制を敷いていたイオン・アントネスク元帥ら親ドイツ派を逮捕して連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させたあとにチェコスロバキアまで戦線を拡大し、対ドイツ戦を続けた。詳細は「ソ連によるルーマニアの占領」を参照
戦後はベッサラビアとブコヴィナをソ連に割譲させられ、ソ連軍の圧力により社会主義政権が樹立した。王制を廃止し、1947年にルーマニア人民共和国が成立した(1965年にルーマニア社会主義共和国に改称)。しかし、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権のもと、次第に他の東側諸国とは一線を画す「自主独立路線」を唱え始め西側との結びつきも強めた。1989年、ニコラエ・チャウシェスクの独裁政権が打倒され(「ルーマニア革命」)、民主化された。
2007年1月1日に欧州連合(EU)に加盟した。加盟に際しては「改革が不十分である」として欧州理事会によって再審査されたが、「加盟後も改革を続行する」として承認された。
政治2007年の欧州連合の拡大。黄色で表示されている国が新たに加盟したルーマニアとブルガリア。詳細は「ルーマニアの政治(ルーマニア語版、英語版)」を参照
現在の政体は大統領を国家元首とする共和制国家であり、議会から選出される首相が行政を行う議院内閣制を採用している。 大統領は任期が5年となっており(2004年までは任期4年)、3選は禁止されている。大統領は象徴的な存在であり、政治の実権は首相に握られている。「ルーマニアの大統領」および「ルーマニアの首相」も参照 立法権は二院制の議会に属し、下院(代議院)は定数330人、上院(元老院)は定数136人で両院とも任期は4年。 ルーマニアは複数政党制となっている国家の一つである。少数民族政党も存在している。「ルーマニアの政党 司法権は最高裁判所に属している。 2004年には北大西洋条約機構(NATO)に参加。2007年1月に欧州連合に加盟した。2016年2月、コメルサントは政府が隣国モルドバの政治危機に乗じて両国の統合を目指し、そのための働きかけを強めていると報じた[16]。 2017年には、2012年に続いて大規模なルーマニア反政府運動 なお、ルーマニア国内では旧王家が「王室」を称して公的活動を積極的に展開している。旧王家の家督は「ルーマニア王冠守護者」の称号と「陛下」の敬称を自称し、ルーマニア社会では広範に認められている。現在の家督はマルガレータ・ア・ロムニエイ。2018年10月29日、旧王家を軸とする国家的価値推進機関「国王ミハイ1世」の創設に関する法案が下院を通過した[17][18]。
行政
議会
政党
司法
国内における動き
国際関係詳細は「ルーマニアの国際関係(ルーマニア語版
この節の加筆が望まれています。 大使・植田治(2020年12月) この節には内容がありません。加筆
日本との関係詳細は「日本とルーマニアの関係」を参照
駐日ルーマニア大使館詳細は「駐日ルーマニア大使館」を参照
住所:東京都港区西麻布三丁目16-19
アクセス:東京メトロ日比谷線 広尾駅3番出口
ルーマニア大使館全景
ルーマニアの国旗
ルーマニア大使館表札
ルーマニア大使館受付時間
ルーマニア大使館裏
駐ルーマニア日本大使館
国家安全保障詳細は「ルーマニア軍」を参照
ルーマニア軍は、国防省の監督下にある総司令官が率いる陸・空・海軍の各軍からなり、戦時には大統領が最高司令官として指揮をとる。陸軍45,800人、空軍13,250人、海軍6,800人、その他8,800人で、文民は約15,000人、軍人は75,000人である。2007年の国防費は国内総生産(GDP)の2.05%、約29億ドルで、2006年から2011年にかけて近代化と新規装備の取得のために総額110億ドルが費やされている。
空軍はソ連の近代化戦闘機MiG-21ランサーを運用している。空軍はC-27Jスパルタン戦術空輸機7機を新たに購入し、海軍は英国海軍から近代化された22型フリゲート艦2隻を購入した。
2010年2月4日、アメリカのクローリー国務次官補(広報担当)は、ルーマニア政府が地上発射型迎撃ミサイルSM-3(イージス・アショア)の配備に同意したことを明らかにした。これは、バラク・オバマ政権が進めた、イランの弾道ミサイルの脅威に対処するための新たな欧州ミサイル防衛(SD)計画に参加したことになる。この件においてアメリカは同計画の参加国が南欧に広がったことを歓迎している。