ルーマニア革命_(1989年)
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緊縮財政を経て、1988年のルーマニアは輸出が輸入を50億ドル上回った[7]。これは第二次世界大戦終結から初めてのことであった[8]1989年4月までに、ルーマニアは対外債務をほぼ完全に返済できた[8]。利息も含めた債務額は210億ドルにも達していた[9]1989年4月12日、ルーマニア共産党中央委員会本会議の場で、チャウシェスクは「ルーマニアは対外債務を完済した」ことを発表した[10][11]。そのうえで、「ルーマニアは、今後一切、外国からの融資を受けない」と宣言した。

1989年12月15日、ルーマニア政府は、ティミショアラ(Timi?oara)に住むハンガリー人牧師に対して教区から立ち退くよう命じた。立ち退き命令に抗議する形で、キリスト教徒たちの集団ができあがり、群衆もこれに加わり、抗議運動は徐々に拡大し、勢いを増していった。ニコラエ・チャウシェスクは非常事態宣言を布告し、ルーマニア共産党中央委員会の建物の内部にあるテレビ放送室で、ルーマニア国民に向けて演説を行った。チャウシェスクはティミショアラの抗議者たちについて「ごろつきの集団」と呼び、「社会主義革命に敵対する者たちである」と非難した。また、「ティミショアラで始まった暴動は、ルーマニアの主権を有名無実化させようと企む帝国主義者の団体と外国の諜報機関からの支援を受けて組織されたもの」であり[8][12]、「社会主義の恩恵を潰し、外国人の支配下に置かれていたころのルーマニアに戻さんとする企みである」と訴えた[9]

1989年12月21日、チャウシェスクは首都・ブクレシュティ(Bucure?ti)にて集会を開催し、集まった労働者たちに向けて演説を行ったが、その最中に騒動が発生し、抗議者・労働者と、軍隊、治安部隊との間で紛争が始まった。1989年12月22日の朝の時点で、チャウシェスクに反対する気運の高まりと抗議行動はルーマニア国内の全主要都市に拡大していた。この日の正午、ニコラエとエレナの二人は、ルーマニア共産党中央委員会の建物の屋上からヘリコプターに乗って逃亡し、ブクレシュティから脱出してトゥルゴヴィシュテ(Targovi?te)に着くも、その日のうちに軍隊に捕らえられた。イオン・イリエスク(Ion Iliescu)が議長となった救国戦線評議会(Consiliului Frontului Salv?rii Na?ionale)による決定に基づき、チャウシェスク夫妻は裁判にかけられた。チャウシェスク夫妻は、国家に対する犯罪、自国民の大量虐殺、外国の銀行に秘密口座の開設、ならびに「国民経済を弱体化させた」容疑で起訴され、夫婦の全財産没収ならびに死刑を宣告されたのち、銃殺刑に処せられるに至った[13]

チャウシェスク政権が滅びたのち、ルーマニアでは1990年1月7日死刑が廃止された[14]。ニコラエとエレナの二人は、ルーマニアで死刑が執行された最後の存在となった。

その後のルーマニアは、その多くがルーマニア共産党員で構成される救国戦線評議会が政権を掌握し、「国家の運営において暫定的な役割のみを担い」、「自由選挙が実施できるようになり次第、撤退し」、「自らは選挙に立候補しない」と約束した[15]


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