ルーマニア社会主義共和国(ルーマニアしゃかいしゅぎきょうわこく、Republica Socialist? Romania, レプーブリカ・ソーチャリスタ・ロムニア)は、1945年から1989年まで存在したルーマニア共産党による一党独裁のソ連型社会主義国である。1965年8月21日までの国号はルーマニア人民共和国(ルーマニアじんみんきょうわこく、Republica Popular? Roman?, レプーブリカ・ポプラーラ・ロムナ)であった。国歌は「三色旗」であり、1848年に国歌として採用された『De?teapt?-te, romane!』(『目覚めよ、ルーマニア人!』)は斉唱を禁止された[1]。国章は、森林とカルパティア山脈を背景に、小麦の穂と油井が描かれており、その後ろから太陽が顔を覗かせる。
1945年5月8日の第二次世界大戦の敗北後、1947年12月30日にルーマニア王国の国王ミハイ一世が退位を宣言して成立し、ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジがルーマニアの指導者となった。1965年3月にゲオルギウ=デジが死ぬと、ニコラエ・チャウシェスクがルーマニア共産党書記長に就任し、共産国家ルーマニアの指導者として統治し続けた。
1989年12月に発生した一連の出来事を経て、共産体制は終焉を迎えた。 君主制を敷いていたルーマニア王国は、1944年8月までミハイ一世が統治していた。イオン・アントネスク(Ion Antonescu)はナチス・ドイツと同盟を結んでおり、第二次世界大戦においてはソ連に立ち向かった。イオン・アントネスクは、自身の政府を弱体化させる可能性のある共産主義の活動家を釈放することについて危惧しており、共産主義者たちはトゥルグ・ジウ(Targu Jiu)の収容所に移送された。ミハイ一世が起こした宮廷クーデターに伴い、1944年8月23日にアントネスクが逮捕されると、共産主義者たちは釈放された[2]。この宮廷クーデターにより、イオン・アントネスクの政府は崩壊し、親ドイツ政権が終わった。ルーマニア共産党(Partidul Comunist Roman)は、1930年代の頃には非合法の組織団体であった。この党はアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)のドイツとの軍事同盟に最初から反対していた唯一の政治勢力でもあった[3]。 1944年8月、ソ連軍のルーマニアへの進軍が加速した。1944年9月の時点で、ソ連はルーマニアの大部分を占領下に置いていた。9月12日にルーマニアとソ連のあいだで休戦協定が結ばれたのち、ソ連軍はルーマニア全土を占領するに至った。ソ連がルーマニアを占領した初期の頃には、ソ連軍の兵士によるルーマニア人女性への強姦が横行していた記録が残っている[4]。
ミハイ一世の退位