ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
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さらに1931年には賠償部の部長を兼務した[1]。しかし財務大臣になるまで彼は政治的にはあまり活動してこなかったが[4]、第一次世界大戦後にドイツが連合国に支払うべき賠償金を処理するために設置された賠償金支払い部門に加わった。
財務相に就任

パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣として1932年6月1日に成立したフランツ・フォン・パーペン内閣に財務大臣として入閣した。ヒンデンブルク大統領の個人的要請を受けての入閣だった[4]。以降、第二次世界大戦でのドイツの敗戦までドイツの財務大臣の地位を保持し続けることになる。

1932年6月16日からドイツの賠償問題に関するローザンヌ会議がイギリス首相ラムゼイ・マクドナルドを議長として行われ、クロージクは、首相パーペン、外相コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵、経済相ヘルマン・ヴァルムボルト(ドイツ語版)らとともに同会議に出席した[5]。その結果、7月9日に締結されたローザンヌ協定によってドイツは賠償金額をだいぶ減らされたが、なお30億マルクの支払いを要求された[5][6]

首相パーペンと内閣の最大の実力者クルト・フォン・シュライヒャー国防相が対立を深めると1932年12月2日の閣議でクロージクは外相ノイラートとともにシュライヒャー断固支持を表明し、パーペンの失脚に一役買った[7]。12月3日に成立したクルト・フォン・シュライヒャー内閣にも財務大臣として留任した。シュライヒャー内閣は1933年1月28日に倒閣したが、その後を受けて1月30日に成立したアドルフ・ヒトラー内閣でも留任することになる。クロジークはシュライヒャーとヒトラーのもとで、ドイツの保守派の代表としてその地位にあった。
ヒトラー内閣の財務相ヒトラー内閣組閣時のフォン・クロージク(後列左から3人目)(1933年1月30日)1941年5月4日の国会。二列目左端からフンク、クロージク、ゲッベルス

ヒトラー内閣においてナチ党員閣僚は首相ヒトラー、内相ヴィルヘルム・フリック、無任所相ヘルマン・ゲーリングの三名のみであった。他はドイツ国家人民党を代表しての入閣者であるアルフレート・フーゲンベルク鉄兜団を代表しての入閣者であるフランツ・ゼルテを除いて、全て大統領内閣時代からの閣僚たちであった。クロージクもそうである。保守閣僚がナチ党閣僚三人を取り囲んでいた。

クロージクはナチ党の台頭を歓迎し、その政策の多くに賛成し、貢献した。その中にはドイツのユダヤ人社会を標的にした政策も含まれていた。しかし宣誓の直前になって将来の財政路線についてヒトラーからいくつかの約束を取り付けている[8]

1933年4月、ヒトラーの介入によりアルトゥーア・ツァルデン(ドイツ語版)次官(のち1944年にゲシュタポに逮捕され自殺)が更迭され、ナチス党の財政専門家であるフリッツ・ラインハルト(ドイツ語版)が次官に就任。ラインハルトは税政などを独断で動かすようになり、実質的に財務省の支配権を握った。しかしフォン・クロージクは、ナチス・ドイツ時代を通じて財務相の地位に留まった。1937年1月30日にはヒトラーよりナチス党員名誉金章を授与され、同時にナチ党に入党している(党員番号3,805,231)。またドイツ国法学会(ドイツ語版)の会員にもなっている。経済相ヒャルマル・シャハトとともにドイツ再軍備計画の監督にあたった[2]

クロージクは、経済相シャハトと異なり、ヒトラーの反ユダヤ主義政策に反対せず、ユダヤ人排除の法律に携わった[2]。1933年4月7日に公布されたユダヤ人を公務員から排除する「職業官吏再建法(ドイツ語版)」に首相ヒトラーと内相フリックとともに署名している[9]。1938年11月19日には内相フリック、労働相ゼルテとともにユダヤ人を公的な福祉事業から排除する法律に署名した[10]。1938年8月、クロージクはヒトラーに覚書を送り、ドイツ経済はまだ準備が整っていないため、スデーテン危機をめぐる開戦を強く反対し、「共産主義者、ユダヤ人、チェコ人」がドイツを時期尚早の紛争に誘い込もうとしていると主張した。彼は、ドイツはその代わりに「その時を待ち」、軍事と経済の強化が完了してから戦争を開始すべきだと主張した[11]

1938年の閣議を最後に彼は事務のみをもっぱらとし、以後は政治の場に姿を現すことはほとんどなかった[1]1939年以降、クロージクはユダヤ人を迫害し、彼らの所有品を盗むだけでなく、違法な資金洗浄も行っている[12]

1945年2月、クロージクはアルベルト・シュペーア軍需相に宛てた書簡の中で、ドイツに残存する工業能力を維持することの重要性を強調した。書簡の内容は、米英連合国によるドイツ本国への空爆作戦は、戦後ソ連による占領を阻止することが目的であり、工業能力を保持することが、ドイツが戦後に西側連合国との友好関係を再構築することに繋がるという、彼の誤った信念に基づくものであった。だがこの書簡が、ヒトラーが命じた焦土作戦にシュペーアが反対し実施を阻止した行動に何らかの影響を与えたかどうかは不明である[13]



第三帝国最後の首相(代行)詳細は「フレンスブルク政府」を参照

第二次世界大戦末期の1945年4月21日にソ連軍が迫るベルリンを脱出。その後ヒトラーはベルリンの地下壕内で遺言書を書記したため、海軍総司令官カール・デーニッツ元帥を大統領に、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスを首相に、そしてフォン・クロージクを財務相に指名して4月30日に自殺した。

しかし、デーニッツはヒトラーの遺言を無視して自ら首脳陣を選出し、軍需相アルベルト・シュペーアの強い推薦で、フォン・クロージクを臨時政府の首相代行(筆頭閣僚)兼外相[14]に指名した[15]


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