ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
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父エーリッヒ・アドルフ・ヴィルヘルムの家系はアンハルトの旧貴族クロージク家(ドイツ語版)だが無位無冠の家柄であり、母ルイーゼ・ロザリー・フリーデリケ・ユリエ・エマ・ルドミラの家系はメクレンブルクポンメルンの貴族シュヴェリン家(ドイツ語版)であった[1]

1893年からロスレーベン(ドイツ語版)の修道院学校(ドイツ語版)に通う[1]アビトゥーア合格後の1905年からハレ大学ローザンヌ大学オックスフォード大学法学政治学を学ぶ[1][2]。1909年から第一次公務員試験に合格し、ナウムブルクでプロイセン王国公務員の修習生として務めた[1]。1910年からはシュテッティンの地方公務員となった[2]。1914年には最終試験にも合格した[2]

第一次世界大戦においては第2ポンメルン槍騎兵連隊に予備役将校として入隊した。戦傷を負い、一級鉄十字章を受章した[2]。戦争終結までに中尉に昇進した[1]

1918年にプレッテンベルク家(ドイツ語版)の男爵令嬢エーレンガルトと結婚した。夫妻は四人の息子と五人の娘に恵まれた[1]
第一大戦後、財務省勤務

1920年に上シレジアのヒンデンブルク市(現ポーランドザブジェ)役所に試補として勤務[1]

同年、ベルリンの財務省に高級官僚として招かれ[1]、同省の参事官の文官階級を得た[2][3]。1922年に文官階級が上級参事官に昇進[1][3]。1924年に文官階級が課長に昇進した[1][3]

1925年、母方の伯父アルフレートの養子となりシュヴェリン伯爵(グラーフ・シュヴェリン)の称号を継承、姓をグラーフ・シュヴェリン・フォン・クロージクと改める[1]

1929年に文官階級が局長に昇進し、財務省予算部の部長を任せられる[1][3]。さらに1931年には賠償部の部長を兼務した[1]。しかし財務大臣になるまで彼は政治的にはあまり活動してこなかったが[4]、第一次世界大戦後にドイツが連合国に支払うべき賠償金を処理するために設置された賠償金支払い部門に加わった。
財務相に就任

パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣として1932年6月1日に成立したフランツ・フォン・パーペン内閣に財務大臣として入閣した。ヒンデンブルク大統領の個人的要請を受けての入閣だった[4]。以降、第二次世界大戦でのドイツの敗戦までドイツの財務大臣の地位を保持し続けることになる。

1932年6月16日からドイツの賠償問題に関するローザンヌ会議がイギリス首相ラムゼイ・マクドナルドを議長として行われ、クロージクは、首相パーペン、外相コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵、経済相ヘルマン・ヴァルムボルト(ドイツ語版)らとともに同会議に出席した[5]。その結果、7月9日に締結されたローザンヌ協定によってドイツは賠償金額をだいぶ減らされたが、なお30億マルクの支払いを要求された[5][6]

首相パーペンと内閣の最大の実力者クルト・フォン・シュライヒャー国防相が対立を深めると1932年12月2日の閣議でクロージクは外相ノイラートとともにシュライヒャー断固支持を表明し、パーペンの失脚に一役買った[7]。12月3日に成立したクルト・フォン・シュライヒャー内閣にも財務大臣として留任した。シュライヒャー内閣は1933年1月28日に倒閣したが、その後を受けて1月30日に成立したアドルフ・ヒトラー内閣でも留任することになる。クロジークはシュライヒャーとヒトラーのもとで、ドイツの保守派の代表としてその地位にあった。
ヒトラー内閣の財務相ヒトラー内閣組閣時のフォン・クロージク(後列左から3人目)(1933年1月30日)1941年5月4日の国会。二列目左端からフンク、クロージク、ゲッベルス


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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