ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク
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1939年以降、クロージクはユダヤ人を迫害し、彼らの所有品を盗むだけでなく、違法な資金洗浄も行っている[12]

1945年2月、クロージクはアルベルト・シュペーア軍需相に宛てた書簡の中で、ドイツに残存する工業能力を維持することの重要性を強調した。書簡の内容は、米英連合国によるドイツ本国への空爆作戦は、戦後ソ連による占領を阻止することが目的であり、工業能力を保持することが、ドイツが戦後に西側連合国との友好関係を再構築することに繋がるという、彼の誤った信念に基づくものであった。だがこの書簡が、ヒトラーが命じた焦土作戦にシュペーアが反対し実施を阻止した行動に何らかの影響を与えたかどうかは不明である[13]



第三帝国最後の首相(代行)詳細は「フレンスブルク政府」を参照

第二次世界大戦末期の1945年4月21日にソ連軍が迫るベルリンを脱出。その後ヒトラーはベルリンの地下壕内で遺言書を書記したため、海軍総司令官カール・デーニッツ元帥を大統領に、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスを首相に、そしてフォン・クロージクを財務相に指名して4月30日に自殺した。

しかし、デーニッツはヒトラーの遺言を無視して自ら首脳陣を選出し、軍需相アルベルト・シュペーアの強い推薦で、フォン・クロージクを臨時政府の首相代行(筆頭閣僚)兼外相[14]に指名した[15]。ちなみに、ヒトラーの遺言で外相に指定されていたのは、アルトゥル・ザイス=インクヴァルトである[16]

急速に進撃する連合軍によって、ドイツ新政府の管轄はデンマーク国境に近いフレンスブルク周辺に限定され、降伏直前の混乱の中でのことであり、実質的な職務も権限もほとんどなかったが、デーニッツに「条約による降伏」を薦めるなどを行っている。1945年5月7日、デーニッツはランスアイゼンハワー将軍の面前で行われた連合国へのドイツ降伏文書への署名を承認。なお彼は5月2日にドイツ国民に対するラジオ演説で、ゲッベルスの原稿から引用する形で「鉄のカーテン」について言及したが、これはこの言葉が広まるきっかけとなったウィンストン・チャーチルフルトン演説(1946年3月)よりも早い使用例である[17]
第二次大戦後

ドイツ降伏後の1945年5月23日、フォン・クロージクは連合国軍に逮捕された。ニュルンベルク継続裁判大臣裁判においては財務省の責任者として第二次世界大戦にユダヤ人から奪った財産を洗浄し、強制収容所に資金を提供した罪で有罪となり、戦犯とされ、1949年4月14日に懲役10年の判決が下された[3]ランツブルク刑務所に投獄された。ニュルンベルクで裁判にかけられるフォン・クロジーク伯爵

しかし米ソ冷戦の中でアメリカはドイツ戦犯の大量恩赦を行うようになり、クロージクも1951年1月31日に恩赦を受けて出所した。戦後は西ドイツエッセンで暮らし、財政に関する著書や回顧録を出版した。1977年3月4日、同地で89歳で死去。孫のベアトリクス・フォン・シュトルヒ(ドイツ語版)はドイツのための選択肢政治家連邦議会議員・元欧州議会議員
脚注^ a b c d e f g h i j k l m nLeMO
^ a b c d e f g ヴィストリヒ、p.95
^ a b c d e ヒルバーグ、下巻p.396


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