ルーサー・ヴァンドロス
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ヴァンドロスは 1980年代に 2曲のビルボード R&B チャートでのナンバー 1 ヒットを発表していて、1986年の「Stop to Love」と、グレゴリー・ハインズとのデュエットの「There's Nothing Better Than Love」である[9]。ヴァンドロスは、アレサ・フランクリンのゴールド・ディスクであるアルバム『Jump to It』のプロデューサーを務めた。そして、次作となる 1983年の『Get It Right』のプロデューサーも務めたが、期待はずれに終わった。1983年には、ディオンヌ・ワーウィックのアルバム『How Many Times Can We Say Goodbye』のプロデュースも務め、デュエットで参加したタイトル曲はホット 100で 27位(R&B チャートで 7位、アダルト・コンテンポラリで 4位)を記録した[10][7]

1985年、ルーサー・ヴァンドロスはテレビ番組『スター・サーチ』で、出場者のジミー・サルベミーニ(Jimmy Salvemini)の才能に目をつけた。ヴァンドロスは、サルベミーニのアルバムを制作した。アルバムが完成した直後である 1986年1月12日、ヴァンドロスの運転する車に、ジミー・サルベミーニと兄のラリーが乗っている状態で衝突事故が発生した。事故により、ラリー・サルベミーニは亡くなり、ヴァンドロスとジミー・サルベミーニは生き残った。サルベミーニ家はヴァンドロスに対して訴訟を起こし、結果的に 70万ドルをヴァンドロスがサルベミーニ家へ支払うことで示談となった。サルベミーニのアルバム『Roll With It』は、翌年発売された。

1989年のコンピレーション・アルバム『The Best of Luther Vandross... The Best of Love』に収録されたバラード「Here and Now」は、ビルボード・ポップ・チャートで初めてのトップ 10 ヒットとなり、最高 6位まで上昇した[7]。そして、第33回グラミー賞で最優秀男性 R&B 歌唱賞を受賞し、初めてのグラミー賞受賞となった[7]

1990年代に発表したアルバム達は、立て続けに成功した。まず、1991年に発表したアルバム『Power of Love』は、ポップ・チャートでトップ 10 ヒットを 2曲生み出し、「Power of Love/Love Power」が第34回グラミー賞で最優秀男性 R&B 楽曲賞を受賞した[7]。1992年の映画『モー・マネー』で使われたジャネット・ジャクソンとのデュエット曲「The Best Things in Life Are Free」は、ポップ・チャートでトップ 10 ヒットとなった[7]

1993年にはロバート・タウンゼンドの映画『スーパーヒーロー・メテオマン』で、殺し屋の役を演じた。11月に発売されたフランク・シナトラのアルバム『Duets』で「The Lady Is a Tramp」をデュエットした。

1994年に発表したマライア・キャリーとのデュエット曲「エンドレス・ラブ」(ライオネル・リッチーダイアナ・ロスのカバー)では、またトップ 10 ヒットとなった[7]。なお、ヴァンドロスは 1981年から 1994年までの間、毎年 R&B チャートでトップ 10 ヒットを記録している。1997年には、3回目のグラミー賞獲得となる第39回グラミー賞の最優秀男性 R&B 歌唱賞を「Your Secret Love」で受賞した[7]

2回目のグレイテスト・ヒッツ・アルバムを 1997年に発表した後、エピック・レコードからヴァージン・レコードへ移り『I Know』を発表した。しかしセールス面では失敗に終わった(彼のオリジナルアルバムとしては唯一プラチナディスク(全米セールス100万枚以上)を逃し、またBillboard R&Bチャートでトップ3を逃したのも唯一である)。この1枚のみでヴァージンとの契約を解消。クライヴ・デイヴィスのレーベルである J Records と契約し、2001年に『Luther Vandross』を発表した。

また、マイケル・ジャクソンとも親交が深く、2001年9月10日に行われた「マイケルジャクソン30周年記念コンサート」に出演し、アッシャー、98°と共に「Man In The Mirror」を披露した。しかし、その翌日、アメリカ同時多発テロ事件が起き、それに衝撃を受けたマイケルはチャリティーソングとして「What More Can I Give」を企画し、マライア・キャリーセリーヌ・ディオンジャスティン・ティンバーレイクグロリア・エステファンといった大物アーティストと共に参加した。

2003年に、ヴァンドロスはアルバム『Dance With My Father』を発表した。そのタイトル曲は、亡き父との幼い頃にダンスした思い出がテーマになっているもので、共作者のリチャード・マークスとともに、第46回グラミー賞最優秀楽曲賞を受賞した[7]。また、この曲は同時に 4回目となる最優秀男性 R&B 歌唱賞を受賞した。アルバムは、Billboard 200(総合アルバムチャート)で初めてとなる 1位を記録した[7]。グラミー賞で初の最優秀R&Bアルバム賞に輝き、またビヨンセとのデュエット「The Closer I Get to You」(ダニー・ハサウェイ&ロバータ・フラックのカバー)も最優秀R&Bデュオ/グループ賞を受賞した。アルバムからの 2nd シングル「Think About You」は、2004年のアーバン・アダルト・コンテンポラリ・ソングで 1位に輝いた。
2003年 - 2005年 : 病気と死

ヴァンドロスは糖尿病高血圧を患っていて、それらは遺伝で引き継がれたものだった。

2003年4月16日、ヴァンドロスはマンハッタンの自宅で、脳卒中にて倒れた。倒れたときは、アルバム『Dance With My Father』にボーカルを録音し終えたばかりだった。アルバムの制作は、1989年から交流が続いているポップ・スターのリチャード・マークスが手伝った。『Dance With My Father』は、ヴァンドロスにとって最初で最後の初登場 1位記録作品となった[7]。このアルバムは、アメリカ合衆国だけで 300万枚売れ、タイトル曲は 2004年にグラミー賞の最優秀楽曲賞を獲得した[7]

2004年のグラミー賞では、ヴァンドロスはビデオテープで最優秀楽曲賞の受賞コメントを話した。「僕がさよならを言うときでも、永遠ではないでしょう。なぜなら僕は愛の力 (Power of Love) を信じているから。」テレビ番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』での例外を除くと、ヴァンドロスは二度と人前に現れることはなくなった。

ヴァンドロスは、2005年7月1日にニュージャージー州エジソンで、54歳で亡くなった。死因は心筋梗塞だった。

葬儀はニューヨーク市にて 2005年7月8日に行われた。葬儀には、親友のスティーヴィー・ワンダーをはじめ、アレサ・フランクリンディオンヌ・ワーウィックパティ・ラベルアッシャーアリシア・キーズ、シシー・ヒューストン(ホイットニー・ヒューストンの母)等、大物アーティストが参列した。2日後、ニュージャージー州のジョージ・ワシントン共同墓地に埋葬された。
代表曲

"Glow of Love" (Change 名義)

"Never Too Much"

"A House Is Not a Home"

"Give Me The Reason"

"Any love"


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