ル・マン24時間レース
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ペースカーはその年度にEU圏内で新発売された車輌が採用される。第1回レースが開催されてから65年目となる1999年には、自国フランスの自動車ではなく、その年デビューしたばかりのベントレー・アルナージが起用された。1923年、第1回目のレースが国際レース化を謳いながら殆ど自国の車で占められていたものの、イギリスからエントリーした2台のベントレーとベルギーの"エクセルシオール"によって辛うじて国際レースとして開催できたことに対する感謝を忘れることなく形にしたものとして注目された。

日本車では、日産がエントリーしていた1990年日産・フェアレディZ 300ZX、同じく日産がエントリーしていた1997年日産・スカイラインGT-R(BCNR33)が採用された。
コース全長の変遷

A (
1923年 - )17.262 km - 現テルトルルージュ付近に向かわず、ル・マン市内中心部まで行き引き返すコースだった。

B (1929年 - )16.340 km

C (1932年 - )13.492 km - テルトルルージュ→ユノディエールへと続く現コースの原型になった。

D (1956年 - )13.461 km - 1955年の大事故を受けピット前ストレートのスタンドを後退させた。

E (1968年 - )13.469 km

F (1972年 - )13.640 km

G (1979年 - )13.626 km

H (1986年)13.528 km - ミュルサンヌコーナーの交差点が十字からロータリーに変更されたため、ロータリーを避ける専用コースでショートカットしている。

I (1987年 - )13.535 km - ダンロップコーナー前にシケインが設置された。

J (1990年 - )13.600 km - ユノディエールに2か所のシケインが設置された。

K (1997年 - )13.605 km - ダンロップシケインのレイアウトを変更した。

L (2002年 - )13.650 km - ダンロップブリッジ下からS字までレイアウトを変更した。

M (2006年)13.650 km - ダンロップシケイン付近を改修した。

N (2007年 - )13.629 km - テルトルルージュ付近を改修した。

O (2018年 - )13.626 km - ポルシェカーブ付近を改修した。

優勝車/優勝者各年の優勝記録についてはについては「ル・マン24時間歴代勝者」を参照
メーカー別勝利数ポルシェ・956(1983年)アウディ・R10 TDI(2006年)ベントレー・4?リットル(1928年)

1位. 19回 - ポルシェ

2位. 13回 - アウディ

3位. 10回 - フェラーリ

4位. 7回 - ジャガー

5位. 6回 - ベントレー

6位. 5回 - トヨタ

7位. 4回 - アルファロメオ

7位. 4回 - フォード

9位. 3回 - マトラ

9位. 3回 - プジョー

11位.2回 - ブガッティ

11位.2回 - ロレーヌ・ディートリッシュ(英語版)

11位.2回 - メルセデス・ベンツ

14位.1回 - シュナール・エ・ワルケル(英語版)

14位.1回 - ラゴンダ

14位.1回 - ドライエ

14位.1回 - タルボ

14位.1回 - アストンマーティン

14位.1回 - ミラージュ

14位.1回 - ルノー

14位.1回 - ロンドー

14位.1回 - マツダ

14位.1回 - マクラーレン

14位.1回 - BMW

特筆的な出来事
ドライバー交代なしで24時間に挑戦

ピエール・ルヴェーは1952年にタルボ=ラーゴで出走し、23時間に渡ってステアリングを握りトップを走り続けたが、疲労のためギアを入れ間違えてエンジンを壊しリタイアとなった[4]。現在は危険防止のためレギュレーションが変更されており、このような長時間連続運転はできない。

ルヴェーのリタイアにより優勝を果たしたメルセデス・ベンツのチーム監督であったアルフレート・ノイバウアーは、その後ルヴェーをメルセデスのチームへ招聘している(後述)。
1955年の事故詳細は「1955年のル・マン24時間レース」を参照メルセデス・ベンツ・300 SLR(同型車)ジャガー・Dタイプ(同型車)

1955年6月11日18時28分、トップを走っていたジャガーマイク・ホーソーンが周回遅れのオースチン・ヒーレーを抜いた直後に急減速してピットイン。後続のオースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリンが追突を避けようと進路変更したところへ、メルセデス・ベンツを運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに衝突し乗り上げ、空中へ飛び上がった。

ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し、車体は分解して炎上。衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客、スタッフ、そしてルヴェーも含めて死者86人、負傷者200人という大事故となった。当時のサーキットにはピットとコースを遮るピットウォールが存在せず、またピットロードも存在していなかった。これはサルト・サーキットも同様で、ピット前での接触事故は高頻度で起きていたとされる。

なお、レースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ということが理由であったほか、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ、救急車が動けなくなるといった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった[5]。優勝者は皮肉にも、大惨事の発端となったホーソーンであった。

この事故の映像は、映画『グレート・ドライバー(原題"Fangio")』等で観ることができる。また、ルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行し、コクピットからその一部始終を目撃していたファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中で「ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360 mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソーンを左側から追い越し、さらに別の1台(カール・クリングのメルセデス)がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった」と述べ、いわゆるレーシングアクシデント(特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント)であったことを模型を用いて解説している。なお、事故後の調査でファンジオのメルセデスの車体にホーソーンのジャガーの塗装がこびり付いていたことでごくわずかに接触していたことが判明し、ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避できたことを証明している。

メルセデス・チームはトップを走行していたが、事故発生から7時間半後、全マシンを呼び戻して棄権した。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マンに姿を見せることはなかった。事故の10分後には大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に「ニトロメタンなど特殊な添加剤を用いていたのではないか」と(事故の原因とは関係ない)レギュレーション違反を疑う声があったが、これについてファンジオは「あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは「燃料噴射システムの秘密を知られないため」という趣旨の発言をしている[6]


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