ルマン_(企業)
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主にレース用のチューニングパーツの開発・販売のほか、ダラーラ・SF14など海外のレーシングカーの輸入販売等も手がける[1]。またガレージルマン名義でレーシングカーコンストラクターとして活動していたこともある。

レース参戦時はチームルマンを名乗る(2000年にレース部門を株式会社チームルマンとして子会社化)。チーム名の由来はル・マン24時間レースから。
チームルマン

1969年にルマン商会のレース部門として設立。1970年代より日本のトップチームのひとつとして多様なカテゴリーで活動している[2]

フォーミュラレースでは、1976年以降に全日本F2000選手権からスーパーフォーミュラへと続く国内トップカテゴリーに継続して参戦している。特に2002年以前はレイナードの国内総代理店を務めており、全日本F3000やフォーミュラ・ニッポンにおいてレイナードの事実上のワークスとして強さを誇った。1991年にはF1デビュー前のミハエル・シューマッハ全日本F3000選手権にスポット参戦し、1996年には弟のラルフ・シューマッハフォーミュラ・ニッポンの初代チャンピオンになっている。

グループCでは自社マシンを開発。また、日産系チームとしてル・マン24時間レースなどにも参戦した経験がある(その際、チーム名が「チームルマン」だったため、海外のエントランスに名前をすぐ覚えてもらえたという)。

2000年代以降はトヨタとの関係が深く、全日本GT選手権及びSUPER GTではGT500においてスープラSC430RC FLC500を走らせた。フォーミュラ・ニッポンおよびスーパーフォーミュラでもトヨタエンジン勢として参戦した。

しかし2020年初め、前年に念願のGT500王者となったにもかかわらず、GT500/スーパーフォーミュラともチームを撤退する(メンテナンスなど裏方としては参戦を継続)という不可解な幕引きとなった。この理由については2021年末時点でも、公式はおろかメディアでも一切明かされていない。

2021年、かつてルマンでフォーミュラニッポン王者となった経歴を持つ本山哲とタッグを組み、Team LeMans w/ MOTOYAMA RacingとしてGT300にチームとして復帰する。マシンはアウディ・R8 LMS。2022年からはチーム名をMOTOYAMA Racing w/ Team LeMansに改めた[3]。しかし第2戦を前に本山との契約を解除、以降はTeam LeMansとしての参戦となった。

2012年野田英樹が設立した「NODAレーシングアカデミー高等学院」と協力関係にあり、チーム代表の土沼広芳など数人のエンジニアが同学院の講師を務めている[4]
レース参戦実績
全日本F2000選手権・全日本F2選手権

全日本F2000には松本恵二を擁して1976年より参戦。松本は1979年に全日本F2のチャンピオンを獲得し、1987年までチームに在籍した。また、海外からジャック・ラフィーケケ・ロズベルグパトリック・タンベイリカルド・パトレーゼら後のF1トップクラスとなるドライバーが全日本F2にルマンからスポット参戦し、ラフィーやパトレーゼは最終戦JAFグランプリで優勝した。

1980年代にもヨーロッパF2が主戦場のステファン・ヨハンソンテオ・ファビクリスチャン・ダナーなどのF1予備軍の外国人ドライバーがルマンより鈴鹿F2に参戦した。
全日本F3000選手権

ジェフ・リース(1988-89所属)、エマニュエル・ピロ(1988-89所属)、ジョニー・ハーバート(1990-91所属)、服部尚貴などが在籍。ロス・チーバー(1991-94所属)はレイナード勢のエースとしてチャンピオン争いを展開した。1991年の第6戦菅生には当時メルセデス・ジュニアチームに所属していたミハエル・シューマッハが参戦し、チーバーに次ぐ2位表彰台を獲得した。シューマッハは引き続き全日本F3000に参戦予定だったがすぐにF1から声がかかったためこの1戦のみの参戦となった。
フォーミュラ・ニッポン

1996年はロックバンドX JAPANがスポンサーとなり話題を呼ぶ。初年度は、ラルフ・シューマッハと服部尚貴がチームメイト同士でタイトルを争い、ラルフが初代チャンピオンを獲得。チームもランキング1位となった。

1997年 ドライバーは、ノルベルト・フォンタナとエスティバン・トゥエロのアルゼンチンコンビとなったが、チーム ノバペドロ・デ・ラ・ロサの前に太刀打ちできず、フォンタナが第7戦美祢で勝利するに留まった。第8戦ではトゥエロに変わってミハエル・クルムがドライブし、終盤2戦は立川祐路がドライブした。

1998年はX JAPANメンバーであるhideのレーベル「LEMONed(レモネード)」がスポンサーとなり、新加入の本山哲がシリーズチャンピオンを獲得し、チームランキングも再び1位に返り咲いた。

1999年 ドライバーは本山に加えて山西康司が加入した。本山はトム・コロネルとシリーズタイトルを争ったが、最終戦鈴鹿でスタートで接触し、2年連続タイトルを逃した。チームランキング2位。

2000年はマレーシア政府がスポンサーになり、チーム体制も2チーム3台に補充。ドライバーもチーム ルマンに野田英樹五十嵐勇大、チーム マレーシアにアレックス・ユーンとなった。しかし予選では速さを見せるものの決勝では不安定なレースが続き、未勝利に終わった。チームランキングも5位に終わる。

2001年 再び1チーム2台体制に戻し、ドライバーも五十嵐勇大とアレックス・ユーンとなったが、昨年同様予選では速さを見せるものの決勝ではリタイアが目立ち、今期は優勝はおろかポイントも取れない展開が続いた。第7戦からはユーンのF1参戦に伴い山西康司が復帰したものの、第8戦美祢での山西の5位が唯一の入賞に終わり、ランキング9位に低迷。

2002年のドライバーラインナップは、共に2年目のナレイン・カーティケヤン土屋武士のコンビとなった。しかし開幕直前になってカーティケヤンが急病を理由に欠場。ベテランの影山正美が代役を勤め、第3戦からは影山に変わってドミニク・シュワガーが起用された。土屋はドライバーズランキング4位と健闘を見せた。

2003年 当時シアトル・マリナーズに在籍していた佐々木主浩をオーナーとする「TEAM 22」のメンテナンス(実質的なチーム運営)を担当。脇阪寿一をドライバーに起用し2勝を挙げた。

2008年は本山哲が10年ぶりに復帰して古豪復権を目指すも成果は出なかった。

長らくフォーラムエンジニアリングがメインスポンサーを務めていたが、2008年からキグナス石油日本サン石油がメインスポンサーとなり、2011年から2年間は、加入した大嶋和也が別のオイルメーカーとスポンサー契約を結んでいたため、この2社をスポンサーとする側は「Team KYGNUS SUNOCO」として分離独立することになった(大嶋を放出した2013年からは再び一つのチームに戻っている)。
スーパーフォーミュラ

2013年から名称が変更されたスーパーフォーミュラへも引き続き参戦。ロイック・デュバルに加えて、前年の全日本F3選手権チャンピオンの平川亮を起用。

2013年・2014年には2年続けてチームランキング2位になるなど古豪復活を果たした。

2015年には平川亮のチームメイトに、前年までF1で戦っていた小林可夢偉を起用。

2020年2月7日にトヨタの体制発表がされたものの、エントリーリストに名前がなく、3月6日にチームからプレスリリースが発表され、KCMGの2台体制をサポートすると発表された。

名称開催年ドライバーチームランキング
フォーミュラ・ニッポン1996年#24 服部尚貴
#25 ラルフ・シューマッハ1位
1997年#1 ノルベルト・フォンタナ
#2 エスティバン・トゥエロ(Rd.1-6)→ミハエル・クルム(Rd.8)→立川祐路(Rd.9-10)3位
1998年#7 ノルベルト・フォンタナ
#8 本山哲2位
1999年#1 本山哲
#2 山西康司1位
2000年#7 野田英樹
#8 五十嵐勇大
#21アレックス・ユーン5位
2001年#7 アレックス・ユーン(Rd.1-6)→山西康司(Rd.7-10)
#8 五十嵐勇大9位
2002年#7 影山正美(Rd.1,2)→ドミニク・シュワガー(Rd.3-10)
#8 土屋武士5位
2003年#7 金石年弘
#8 土屋武士4位
2004年#7 脇坂寿一
#8 土屋武士
#25 片岡龍也4位
2005年#7 片岡龍也
#8 土屋武士5位
2006年#7 片岡龍也
#8 高木虎之介6位
2007年#7 片岡龍也
#8 高木虎之介8位
2008年#7 本山哲
#8 石浦宏明7位
2009年#7 国本京佑
#8 石浦宏明5位
2010年#7 ケイ・コッツォリーノ
#8 石浦宏明5位
2011年#7(Team LeMans) 大嶋和也
#8(Team KYGNUS SUNOCO) 石浦宏明4位(Team LeMans)
8位(Team KYGNUS SUNOCO)
2012年#7(Team LeMans) 大嶋和也
#8(Team KYGNUS SUNOCO) ロイック・デュバル5位(Team LeMans)
4位(Team KYGNUS SUNOCO)
スーパーフォーミュラ2013年#7 平川亮
#8 ロイック・デュバル(Rd.2-6,FSC) アンドレア・カルダレッリ(Rd1,7)2位
2014年#7 平川亮
#8 ロイック・デュバル(Rd.1,2,4-7) アンドレア・カルダレッリ(Rd.3)2位
2015年#7 平川亮
#8 小林可夢偉4位
2016年#7 ナレイン・カーティケヤン
#8 小林可夢偉10位
2017年#7 フェリックス・ローゼンクビスト
#8 大嶋和也4位
2018年#7 ピエトロ・フィッティパルディ(Rd.1)→トム・ディルマン(Rd.2-Rd.7)
#8 大嶋和也7位
2019年#7 アルテム・マルケロフ(Rd.1-5)→中山雄一(Rd.6,7)
#8 大嶋和也10位

富士GC

富士グランチャンピオンレース(富士GC)では1983年に松本恵二がチャンピオンを獲得。1988年と1989年にはジェフ・リースが2年連続チャンピオンとなった(富士GCは1989年で終了)。
全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権

全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権には、株式会社ユーピー(パナスポーツブランド)をスポンサーとして、1984年に自製のLM04Cで参戦を開始した。1985年シーズン途中にLM05Cに車両を変更し、WEC-JAPANでは2位入賞を果たした。1986年シーズンには日産からV6のVG30エンジンが供給されるが、LMシャシーではパワーを受け止めることができず、マーチ製の86Gにマシンを変更した。LMシャシーにはトヨタエンジンが供給され、日産、トヨタエンジンでの2カーエントリーとなる。2台体制は翌87年も続き、WEC-JAPANでは和田孝夫に手によりポールポジションを獲得した。日産のCカーによる参戦は1991年まで続いた。1993年の鈴鹿1000kmではニスモとジョイントで日産・R92CPで優勝を果たした。


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