ルドルフ・ヘス
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これを読んだヒトラーは驚愕し[# 3]、「何ということだ、ヘスがイギリスへ逃走した」と叫んだという[# 4]。ピンチュはその後逮捕され、1944年まで収監された。

5月12日、ドイツではヒトラーと外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップが討議し、ヘスの逃走を認可すれば、ドイツが同盟国を裏切って対英単独講和を行おうとしたと取られることを危惧した。午後8時、ミュンヘン放送局で「党員ヘスが病気進行のため、総統の制止を振り切って飛行機に乗って飛び立ち、帰還していない」とヘスの逃走がはじめて公表された。

イギリス時間5月13日午前0時、ハミルトン公とともにヘスの元を訪れたBBCヨーロッパ部長アイヴォン・カークパトリック(Ivone Kirkpatrick)は、その人物が間違いなくヘスであると確認した。ヘスはカークパトリックらに4時間にわたって語りかけ、ヨーロッパにおけるドイツの「フリーハンド」を要求した。午前6時、BBCでヘスの脱走がはじめて報道された。ただし、理由については「イギリスはゲシュタポから逃れられる唯一の国である」と述べたのみであった。カークパトリックの報告を受けたウィンストン・チャーチル首相は、「ヘスだろうが何だろうが、わしはまずマルクス兄弟の映画を見る」とジョークを飛ばすなど冷静に対処し、その後ヘスを「国家捕虜」として扱い、陸軍省によって拘禁することを決めた。

ヘスがイギリスに到着したことを知ったドイツは再度放送を行い、精神異常の結果であったことを強調した。また、外相リッベントロップはイタリアのベニート・ムッソリーニ首相と会談し、ヘスが精神異常であったことを説明した。ムッソリーニは表面上は愛想良く振る舞い、ドイツ側に了解の意を伝えたが、後にイタリア外相ガレアッツォ・チャーノに、「ナチス体制にとっては大打撃だが、ドイツの権限を失墜させる点では喜ばしい」と語っている。

5月16日、ヘスはブキャナン城からロンドン塔に移送された。彼はロンドン塔に幽閉された最後の人物となった。チャーチルはヘスの対英和平意図を議会で公表しようとしたが、閣僚の反対を受けて断念した。同日、ナチス本部は「ドイツに関する限り、ヘス事件は終了した。我々はもはやヘス氏と何の関わりもない」と声明した。これ以降、両国政府がヘスに関して動きを見せることはなくなった。

メッサーシュミットやハウスホーファーらピンチュ以外の関係者は取り調べを受けたが短期間で釈放された。ヘスの権限は新たに党官房長に任命されたボルマンが掌握した。しかしヘスの写真はドイツ各地で他のナチス幹部と同様に飾られ続け、家族には閣僚としてのヘスの年金が支払われ続けた。

5月20日、ヘスはファンボロー付近のミチェット・プレイス基地に移送された。拘禁生活でヘスは鬱病を悪化させ、食物に毒物が入っているのではないかという強迫観念にとりつかれた。6月15日、ヘスは部屋のバルコニーから飛び降り自殺を図ったが、一命はとりとめた。1942年6月26日、ヘスはウェールズのアバガヴェニーにある精神病院に収容され、終戦までそこにいた。
ニュルンベルク裁判ニュルンベルク監獄でのヘス(1945年11月24日)ニュルンベルク裁判での被告席にて。前列奥からゲーリング、ヘス、リッベントロップ、カイテル

終戦後の1945年10月10日ニュルンベルク裁判にかけるためにアメリカ軍が管理するニュルンベルク刑務所に入れられた[64]

しかしヘスは記憶喪失を主張した。アメリカ軍がヘスをゲーリングやハウスホーファー教授と引き合わせても、ヘスは「この人を知らない」と主張した[65]。11月7日に彼の弁護士ギュンター・フォン・ロールシャイト博士はヘスの精神鑑定を求めた[66]。法廷の要請により米英ソの精神分析医が10名集められてヘスの精神鑑定を行った。彼らは「ヘスの健忘症は、弁明を行ったり過去の出来事を理解したりする彼の能力を妨げるものである」と結論した。裁判を受ける法的能力があるかどうかは判事団にゆだねられた[67]

因みに、ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が、開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、ヘスの知能指数は120で、全被告人中では4番目に低かった[68]

11月20日からニュルンベルク裁判が始まった。ヘスは全ての起訴事項(第一起訴事項「共同謀議」、第二起訴事項「平和に対する罪」、第三起訴事項「戦争犯罪」、第四起訴事項「人道に対する罪」)で起訴された。11月21日に被告人全員に対して自分の訴因について「有罪」か「無罪」かを答える罪状認否が行われたが、この際にヘスだけが「ナイン(ノー)」と答えて失笑を買った[69][70]。ヘスはこれ以外にも、終始虚ろな目をし、床に寝っ転がって食事をしたり、運動場で脚を高く上げて行進したり、法廷でヘッドホンの着用を拒否したり、卑猥な言葉をつぶやいたり、公判中に小説を読んだりするなど奇行が目立った[71]

11月29日にヘスに法廷能力があるかどうかの審理が開かれた。一人被告席に座るヘスにギルバート大尉は「貴方はもうじき来なくて良くなるだろう」と告げた。ヘスはこれに驚いた様子であったという[67]。審理がはじまるとヘスは突然「今後、私の記憶は外部世界に対して再び反応します。記憶喪失を装っていたのは、戦術上の理由からであります」と述べ、自ら記憶喪失ではないことを明らかにした。これに法廷や世界中のマスコミは驚いた。これを受けて判事団は1945年12月1日に「ヘスには責任能力あり」と結論し、彼は裁判に残ることとなった[72]

1946年2月5日、ヘスはロールシャイトを熱心でないとして解雇し、ハンス・フランクの弁護をしているアルフレート・ザイドルを指名した[73][74]。被告側弁論においてヘスが自ら立つことはなかった。ザイドルは独ソ不可侵条約の密約問題を持ち出し、ソ連が裁判官の席に座る資格はないことを主張した[75]。またかつてヘスの指揮下にあった海外のある組織がスパイ活動をしていなかったことを証明するために2人の証人を召喚してヘスの弁護側反論は終わった。彼自身が証言に立たなかったため、反対尋問もなかった[75]

1946年10月1日に被告人全員に対して判決が下った。ヘスは判決の際にもヘッドホンを付けることを拒否した。判決文が読み上げられている間、彼は体を前後に揺らしていた。ヘスは「第三帝国による忌まわしい行為に実際には参画していなかった」として第三起訴事項「戦争犯罪」と第四起訴事項「人道に対する罪」について無罪とされた。一方で「初期のナチスにおける共謀にはヒトラー、ゲーリングに次ぐ幹部として加わっており、また彼はチェコスロバキアとポーランドを分割する布告に署名している」として第一起訴事項「共同謀議」と第二起訴事項「平和に対する罪」で有罪とされた[76]

その後に個別に言い渡された量刑判決では、ヘスは終身刑判決を受けた。ヘスは死刑判決を逃れた10人の被告のうちの1人だった。10月16日、死刑判決を受けた10人の死刑囚(自殺したゲーリングをのぞく)の刑が執行された。死刑執行後、ヘス以下死刑判決を逃れた被告らは死刑場の清掃をさせられた。ヘスは刑執行の際に飛び散った血のついた床を見つけると右手を掲げてナチ式敬礼を行った[77]
シュパンダウ刑務所ヘスの肖像を掲げるネオナチのデモ。横断幕には「殉教者たちは決して死なない」と書かれている(ヴンジーデル、2004年8月21日)

1947年7月18日から他の禁錮刑判決を受けた戦犯たち(ヘス以外にバルトゥール・フォン・シーラッハアルベルト・シュペーアカール・デーニッツコンスタンティン・フォン・ノイラートヴァルター・フンクエーリッヒ・レーダー)とともにシュパンダウ刑務所で服役することになった[78][79]

同刑務所は米英仏ソ四国の共同管理で月ごとに看守が交代した。イギリスが1月・5月・9月、フランスが2月・6月・10月、ソ連が3月・7月・11月、アメリカが4月・8月・12月を担当した[79]


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