ルドルフ・ヘス
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やがてボルマンに実務が委ねられることが多くなり、ヒトラーとも徐々に疎遠となった[55]。この頃ヒトラーはゲーリングに「ヘスが私に代わって務めることがなければいいんだがな。そうなったら気の毒なのはヘスなんだか党なんだか、分からんな」と語ったという[56]

総統の寵愛を失うにつれてヘスには政府代表としてドイツ各地を巡って国民や党員と交流を深める形式的な職務が多く割り当てられるようになり、実権をますます喪失させていった[57]。日々冷遇されるヘスはオカルトに没頭するようになり、占星術ダウジング夢占い千里眼などの専門家が続々と彼の下に集まってくるようになった[54]

1935年制定の反ユダヤ主義法ニュルンベルク法にはヘスの署名がある[58][59]。その後も多数の反ユダヤ関連の法律に署名した[60]。ただ1938年11月8日に発生した反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」については、首謀者であるゲッベルスと仲が良くなかったこともあり、「文化的市街を略奪して汚すのはドイツ人らしくない」と反対の弁を口にしている[61]

1939年8月には、ゲーリングを議長とする「国防閣僚会議(ドイツ語版)」の議員となる[32]。もっともこの会議は一度も開かれることはなく、単なる名誉職であった[62]。1939年9月1日にヒトラーは対ポーランド戦の開戦にあたっての国会演説でヘスをゲーリングに次ぐ第二後継者と定めた[62][63]。もちろんこの頃のヘスはほとんど実権を喪失しており、彼の国民的人気に配慮しただけの指名であった[62]
イギリスへの逃走ヘスの搭乗したBf110の残骸

ポーランド侵攻後、ドイツはイギリスとフランスから宣戦布告を受けた。1940年6月にドイツはフランスを下して占領下に置いた。ヒトラーはイギリスに対してはかねてから和平を望んでおり、ヘスも同意見であった。また、同じく対英和平論者であったハウスホーファーと1940年8月31日に会談した際、「ヘスが飛行機に乗って重要な目的地に旅立つ」「ヘスが大きな城に入っていく」という夢を見たと告げられており、ヘスは単独で渡英し、和平を実現することを思いついた。

ヘスはハウスホーファーと、その息子のアルブレヒト(英語版)とたびたび書簡を交わした。アルブレヒトは英国側の接触者として、ハミルトン公ダグラス・ダグラス=ハミルトンを推薦した。ハミルトン公は国王や首相ウィンストン・チャーチルと親しく、ヘスとベルリンオリンピックで面会したことがあった。ヘスはハミルトン公の元に手紙を送ったが、イギリス側の検閲のため届かなかった。

1940年10月頃からヘスは飛行訓練を始めた。訓練にはBf110の設計者であるヴィリー・メッサーシュミットも協力し、以降30回の飛行訓練を行った。また国外組織指導者ボーレはハミルトン公あて書簡の英訳を依頼されている。これらの準備は秘密裏に行われたわけではなかったが、差し止められることはなかった。書簡の英訳が終了した頃、ヘスは飛行を試みたが、飛行機の故障により引き返した。この際に飛行の理由と、「失敗した時を考慮し、総統は何も知らぬ立場に置かねばならない」と副官カール=ハインツ・ピンチュ(英語版)大尉に語っている。

1941年5月10日正午、アルフレート・ローゼンベルクがヘスの元を訪れ、ヒトラーに対する連絡の有無を相談した。午後6時10分、ヘスはイギリスに向けBf110で飛び立った。この際、ピンチュが空軍に戦闘機の誘導電波発出を依頼したため、ゲーリングはヘスの逃走を知った。ゲーリングは第26戦闘飛行旅団長アドルフ・ガーランドにヘスの機の捜索を命じたが、すでに薄暮にさしかかっていたため、ガーランドは形だけの捜索を行い「捜索失敗」を報告した。以降、ドイツ側がヘスの消息をつかむことはできなかった。

イギリスにはバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍を撃退した強力かつ厳重なレーダー防空網が敷かれており、しかもわずかな訓練で夜間飛行を行い着陸するのは困難であることが予想された。しかしヘスは奇跡的に防空網をかいくぐり、イギリス時間午後8時30分頃、スコットランドグラスゴー郊外の農場に不時着した。ヘスは右足首を捻挫したものの無事であった。ヘスは身分を隠して「アルフレート・ホルン大尉」と名乗り、逮捕に来た郷土防衛隊員にハミルトン公との面会を依頼した。しかしすでに深夜であったため、ハミルトン公は翌日に面会することにした。
イギリスでの虜囚時代ヘスの搭乗したBf110のエンジン(イギリス国立航空博物館所蔵)

5月11日、ヘスはハミルトン公と面会して身分を明かした。事態の重大さに驚いたハミルトン公は彼をブキャナン城に移し、政府に連絡を取った。同じ頃、副官ピンチュはオーバーザルツベルクベルクホーフに到着し、3時間待たされた後にヒトラーにヘスの書簡を見せた。これを読んだヒトラーは驚愕し[# 3]、「何ということだ、ヘスがイギリスへ逃走した」と叫んだという[# 4]。ピンチュはその後逮捕され、1944年まで収監された。

5月12日、ドイツではヒトラーと外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップが討議し、ヘスの逃走を認可すれば、ドイツが同盟国を裏切って対英単独講和を行おうとしたと取られることを危惧した。午後8時、ミュンヘン放送局で「党員ヘスが病気進行のため、総統の制止を振り切って飛行機に乗って飛び立ち、帰還していない」とヘスの逃走がはじめて公表された。

イギリス時間5月13日午前0時、ハミルトン公とともにヘスの元を訪れたBBCヨーロッパ部長アイヴォン・カークパトリック(Ivone Kirkpatrick)は、その人物が間違いなくヘスであると確認した。ヘスはカークパトリックらに4時間にわたって語りかけ、ヨーロッパにおけるドイツの「フリーハンド」を要求した。午前6時、BBCでヘスの脱走がはじめて報道された。ただし、理由については「イギリスはゲシュタポから逃れられる唯一の国である」と述べたのみであった。カークパトリックの報告を受けたウィンストン・チャーチル首相は、「ヘスだろうが何だろうが、わしはまずマルクス兄弟の映画を見る」とジョークを飛ばすなど冷静に対処し、その後ヘスを「国家捕虜」として扱い、陸軍省によって拘禁することを決めた。

ヘスがイギリスに到着したことを知ったドイツは再度放送を行い、精神異常の結果であったことを強調した。また、外相リッベントロップはイタリアのベニート・ムッソリーニ首相と会談し、ヘスが精神異常であったことを説明した。ムッソリーニは表面上は愛想良く振る舞い、ドイツ側に了解の意を伝えたが、後にイタリア外相ガレアッツォ・チャーノに、「ナチス体制にとっては大打撃だが、ドイツの権限を失墜させる点では喜ばしい」と語っている。

5月16日、ヘスはブキャナン城からロンドン塔に移送された。彼はロンドン塔に幽閉された最後の人物となった。チャーチルはヘスの対英和平意図を議会で公表しようとしたが、閣僚の反対を受けて断念した。同日、ナチス本部は「ドイツに関する限り、ヘス事件は終了した。我々はもはやヘス氏と何の関わりもない」と声明した。これ以降、両国政府がヘスに関して動きを見せることはなくなった。

メッサーシュミットやハウスホーファーらピンチュ以外の関係者は取り調べを受けたが短期間で釈放された。ヘスの権限は新たに党官房長に任命されたボルマンが掌握した。しかしヘスの写真はドイツ各地で他のナチス幹部と同様に飾られ続け、家族には閣僚としてのヘスの年金が支払われ続けた。

5月20日、ヘスはファンボロー付近のミチェット・プレイス基地に移送された。拘禁生活でヘスは鬱病を悪化させ、食物に毒物が入っているのではないかという強迫観念にとりつかれた。6月15日、ヘスは部屋のバルコニーから飛び降り自殺を図ったが、一命はとりとめた。1942年6月26日、ヘスはウェールズのアバガヴェニーにある精神病院に収容され、終戦までそこにいた。
ニュルンベルク裁判ニュルンベルク監獄でのヘス(1945年11月24日)ニュルンベルク裁判での被告席にて。前列奥からゲーリング、ヘス、リッベントロップ、カイテル

終戦後の1945年10月10日ニュルンベルク裁判にかけるためにアメリカ軍が管理するニュルンベルク刑務所に入れられた[64]

しかしヘスは記憶喪失を主張した。


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