ヘスはヒトラーの秘書活動の合間を縫って党のための宣伝飛行も行っていた。「ドイツ一周飛行」や「ツークシュピッツェ飛行」などの航空イベントに参加した[38]。1931年にはナチ党所有の航空機で社民党の集会に低空飛行をかけて社民党員を蹴散らした。この件で社民党から告発を受けて裁判沙汰となった。普段は真面目でおとなしいが、突然飛行機に乗って極端なことをやる傾向は当時からあったようである[38]。
グレゴール・シュトラッサーの除名後の1932年12月、ヒトラーはシュトラッサーの組織全国指導者の職をいくつかに分解し、そのうちの中心的な役割をヘスとロベルト・ライに与えた。ヘスには中央政治局局長なる地位が与えられた。これは全ての党機関を監督する責任者であった[32][39][40]。
ナチ党政権獲得後1936年2月6日、ガルミッシュ=パルテンキルヒェン冬季五輪開会式におけるヒトラーとヘス1938年9月6日、ニュルンベルク党大会においてナチス式敬礼で挨拶を交わすヒトラーとヘス
翌1933年1月30日にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりヒトラーが首相に任命された。1933年3月の国会選挙でヘスは国会議員に当選した[41]。
1933年4月21日にナチ党の副総統(Stellvertreter des Fuhrers,「指導者代理」や「総統代理」とも訳される)に任命された[32][42][43]。この職位は総統の名で党のあらゆる問題を処理する権限を持ち、また立法が国家社会主義に即しているかどうか監視するためにドイツ国のあらゆる法律制定に参画すると定められていた[44]。ヘスにはヨーゼフ・ゲッベルスの新聞、エルンスト・レームの突撃隊、ヘルマン・ゲーリングの警察権力といったような実力が何もなかった。ヘスの実権は全てアドルフ・ヒトラーから発せられるものであった。そして恐らくそれが彼が副総統の地位を得た理由であった[45]。
ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊 (SS) に接近を図り、親衛隊名誉指導者として親衛隊に入隊し、ヒムラーから親衛隊大将の階級を与えられた。親衛隊大将の階級を最初に得たのはヘスである。1934年6月にはヘスは副総統の権限で親衛隊情報部 SD をナチ党唯一の諜報機関とすると定めた[46]。
1933年7月からはマルティン・ボルマンがヘスの秘書・副官として活動するようになった。ボルマンは非常に有能な人物で上官ヘスから徐々に権限を奪っていた[47]。
1933年10月3日にはナチ党国外組織 (AO) (de:NSDAP/AO) の総裁に就任し、エルンスト・ヴィルヘルム・ボーレをその大管区指導者、実弟アルフレートを副指導者とした。また外国籍のドイツ人の管理のための機関として「外国でのドイツ主義のための民族団体」(VDA) を立ち上げ、恩師のカール・ハウスホーファーにその総裁に就任してもらっている。さらにヨアヒム・フォン・リッベントロップに「リッベントロップ事務所(ドイツ語版)」を立ち上げさせた。ヘスはこれらの組織を使って外務省やナチ党対外政策全国指導者アルフレート・ローゼンベルク、さらに独立傾向を強めたリッベントロップなどと外交権をめぐって争った[48][49]。
1933年12月1日にはヒトラー内閣に無任所大臣として入閣した。党を代表して内閣に参加するという建前であった[44]。
1934年6月30日の突撃隊粛清(「長いナイフの夜」)の直前の6月25日にヘスは突撃隊で横行していた第二革命論を批判する声明を出した。しかしヘスがレーム以下突撃隊幹部をまとめて粛清することを知らされたのは当日朝早くのヒトラーの電話によってであった。粛清自体にではなく、自分に事前に何も伝えられなかった事に彼は大きなショックを受けたとされる[50]。ヒトラーはその電話でヘスにミュンヘンの褐色館に参じるよう命じ、自身はレーム以下突撃隊幹部を招集していたバート・ヴィースゼーに逮捕に向かった[51]。一方ヘスは命令通り褐色館に参じた。そこでも数十名の突撃隊員が監禁されており、ヘスは彼らに「諸君も容疑者だ。諸君のうち罪なき者も、他人の罪により苦しむことになるであろう」と冷たい口調で言い放った[52]。しかしその後、ヒトラーがヘスの友人のアウグスト・シュナイトフーバー突撃隊大将の銃殺を決定した時にはかなり動揺した様子であったといい、ヘスはヒトラーに考え直させようとしたが、却下されて奥の部屋に引っ込み、そこで泣いていたという[50][52]。一方でレームの粛清には何のためらいもなかったらしく、ヘスは「最大の豚は消えねばならない」と述べ、「総統、レームの処刑は私にお任せください!」とヒトラーに願い出ている。もっとも彼はこれを認めず、別の者に処刑させた[50][53]。
この事件以降、ヘスはノイローゼ気味になり、しまいには心気症(ヒポコンデリー)を患った。また、彼は1933年頃から胃や胆石の痛みを訴えるようになっていたが、それらもますます酷くなった[54]。やがてボルマンに実務が委ねられることが多くなり、ヒトラーとも徐々に疎遠となった[55]。この頃ヒトラーはゲーリングに「ヘスが私に代わって務めることがなければいいんだがな。そうなったら気の毒なのはヘスなんだか党なんだか、分からんな」と語ったという[56]。
総統の寵愛を失うにつれてヘスには政府代表としてドイツ各地を巡って国民や党員と交流を深める形式的な職務が多く割り当てられるようになり、実権をますます喪失させていった[57]。日々冷遇されるヘスはオカルトに没頭するようになり、占星術やダウジング、夢占い、千里眼などの専門家が続々と彼の下に集まってくるようになった[54]。
1935年制定の反ユダヤ主義法ニュルンベルク法にはヘスの署名がある[58][59]。