ルドルフ・ヘス
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4月末には反乱は鎮圧され、ヘスも4月30日にエップ義勇軍を退役した[23]
ナチ党闘争時代の活動

1920年5月、ミュンヘンビヤホール「シュテルンエッカーブロイ」においてアドルフ・ヒトラーの演説を初めて聞き[24]、非常に共感を覚えたヘスは、7月1日にナチ党の創立メンバー(党員番号16)として入党した[25]。学生リーダーとなってヒトラーとも密接な関係を築く。このころのヘスの手紙からはヒトラーを「護民官」と呼んで熱狂する様子がよく伝わってくる。

1923年11月8日夜20時30分から始まったミュンヘン一揆においてはヒトラーに同道して「ビュルガーブロイケラー」へ突入した。ヘスはその夜捕まえたバイエルン州政府閣僚の移送にあたった。さらに翌日午前11時には大学生たちを率いてミュンヘン市役所を襲撃してユダヤ人とドイツ社会民主党党員の市議会議員を拘束し、彼らを人質としてビュルガーブロイケラーへ移送した。その後も人質の監視の任にあたっていた。ヘスは人質に乱暴な取扱いはしなかったという[26]

一揆の失敗を知り、オーストリアザルツブルクに逃亡するが[27]、翌1924年4月2日にヒトラーに判決が下ったことを知るとミュンヘンへ戻って自首した。バイエルンの国民法廷から18か月の城塞禁固刑(ドイツ語版)を言い渡され[28]、ヒトラーと同じランツベルク刑務所に投獄された[28][29]

獄中ではヒトラーと非常に親密な関係を築いた。ハウスホーファー教授が頻繁にランツベルク刑務所のヘスを訪ね、ヒトラー、ヘス、ハウスホーファーの三人で長時間にわたり語り合ったりしていた[30]。ヒトラーの著書『わが闘争』の口述筆記もヘスが務めた。ヘスはただの筆記者ではなく、ヒトラーの著述のアドバイザーでもあった。『我が闘争』の中の「生存圏」や「歴史におけるイギリスの役割」などの項目はヘスの影響が大きい[31][32]

出獄後は一時ミュンヘン大学でハウスホーファーの助手になるが、すぐに辞職。ヒトラーの個人秘書となり、ヒトラーとの密接な関係を続けた。彼はヒトラーのスケジュールを管理し、またヒトラーへの苦情の受付を担当するなどして、ヒトラーを面倒事から解放した。またヒトラーに接近する者の管理を行った。アルフレート・ローゼンベルクは当時のことを「ヒトラーに近づくのは容易ではなかった。いつもその近くにヘスがいたからだ」と語っている[33]。ただし1932年までヘスにはナチ党内で公式の肩書は何もなく、ヒトラーの個人的な秘書にすぎなかった[32]

ヒトラーとヘスは公的な場では「貴方 (Sie)」で呼び合っていたが、私的な場では親密な間柄の二人称「きみ (du)」で呼び合う仲だった[34]。しかしヒトラーはすでにこの頃からヘスにいらつくことがあり、1927年夏にはハインリヒ・ホフマンに対して「ヘスは真面目だが、時々神経に触る」と語っている[35]

1927年12月20日にはヒトラーとハウスホーファー教授を立会人としてイルゼ・プレールと結婚している。結婚式はキリスト教会を嫌って市役所において行った[36][37]

ヘスはヒトラーの秘書活動の合間を縫って党のための宣伝飛行も行っていた。「ドイツ一周飛行」や「ツークシュピッツェ飛行」などの航空イベントに参加した[38]。1931年にはナチ党所有の航空機で社民党の集会に低空飛行をかけて社民党員を蹴散らした。この件で社民党から告発を受けて裁判沙汰となった。普段は真面目でおとなしいが、突然飛行機に乗って極端なことをやる傾向は当時からあったようである[38]

グレゴール・シュトラッサーの除名後の1932年12月、ヒトラーはシュトラッサーの組織全国指導者の職をいくつかに分解し、そのうちの中心的な役割をヘスとロベルト・ライに与えた。ヘスには中央政治局局長なる地位が与えられた。これは全ての党機関を監督する責任者であった[32][39][40]
ナチ党政権獲得後1936年2月6日、ガルミッシュ=パルテンキルヒェン冬季五輪開会式におけるヒトラーとヘス1938年9月6日、ニュルンベルク党大会においてナチス式敬礼で挨拶を交わすヒトラーとヘス

1933年1月30日パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりヒトラーが首相に任命された。1933年3月の国会選挙でヘスは国会議員に当選した[41]

1933年4月21日にナチ党の副総統(Stellvertreter des Fuhrers,「指導者代理」や「総統代理」とも訳される)に任命された[32][42][43]。この職位は総統の名で党のあらゆる問題を処理する権限を持ち、また立法が国家社会主義に即しているかどうか監視するためにドイツ国のあらゆる法律制定に参画すると定められていた[44]。ヘスにはヨーゼフ・ゲッベルスの新聞、エルンスト・レーム突撃隊ヘルマン・ゲーリングの警察権力といったような実力が何もなかった。ヘスの実権は全てアドルフ・ヒトラーから発せられるものであった。そして恐らくそれが彼が副総統の地位を得た理由であった[45]

ハインリヒ・ヒムラー親衛隊 (SS) に接近を図り、親衛隊名誉指導者として親衛隊に入隊し、ヒムラーから親衛隊大将の階級を与えられた。親衛隊大将の階級を最初に得たのはヘスである。1934年6月にはヘスは副総統の権限で親衛隊情報部 SD をナチ党唯一の諜報機関とすると定めた[46]

1933年7月からはマルティン・ボルマンがヘスの秘書・副官として活動するようになった。ボルマンは非常に有能な人物で上官ヘスから徐々に権限を奪っていた[47]

1933年10月3日にはナチ党国外組織 (AO) (de:NSDAP/AO) の総裁に就任し、エルンスト・ヴィルヘルム・ボーレをその大管区指導者、実弟アルフレートを副指導者とした。また外国籍のドイツ人の管理のための機関として「外国でのドイツ主義のための民族団体」(VDA) を立ち上げ、恩師のカール・ハウスホーファーにその総裁に就任してもらっている。さらにヨアヒム・フォン・リッベントロップに「リッベントロップ事務所(ドイツ語版)」を立ち上げさせた。


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